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城輪アズサ

@wheelfort.bsky.social
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見たコンテンツの感想とか上げていきます。 note→ note.com/wheelfort 同人サークルのほう→ santarosemedia.booth.pm

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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 06/10/2026
『靴みがき』(デ・シーカ、1946年) 戦後イタリアを舞台に、成り行きで収監された二人の少年の悲劇を描き出す。靴みがきで生計を立てる少年たちは、憧れの対象である馬を買うことによって束の間の夢を見るが、別口で盗難の嫌疑をかけられ逮捕される。彼らは彼らにかかわった人々を庇い立てるのだが、刑務官の策謀により自白を行う。そしてそのことをめぐって亀裂が深まっていくのだ。戦後すぐの刑務所はある種収容所にも重ねられるようなものとして描き出される。そこで少年たちのプリミティヴな友情が嘲弄され、裏切られるという構図はやはり苦い。そしてそれは、彼らを含む少年たちを犯罪へ向かわせる時代の暗部を抉らずにはおかない。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 06/10/2026
『自転車泥棒』(デ・シーカ、1948年) 戦後イタリアを舞台に、ある男の自転車の奪回を悲劇的に描き出した作品。ここでは社会全体が経済的困窮の中である混沌さの中にあり、自転車の盗難もまたそうした背景の中で理解される必要がある。ここでは男がそうであるところの〈父〉を含めたあらゆる大きな価値が転倒しており、誇りや品位そのものが酷薄なリアリズムによって蹂躙されている。そして男は、盗難者(とその協力者)にやり込められ、怪しげな占いに無意味な箴言を掴まされ、そして最後には自ら他人の自転車を盗んでしまう。単に生きることそのものが尊厳の崩壊に結びつく、この映画の描き出す戦後間も無くの現実は苦い。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 03/10/2026
「ヴァールブルクはヨーロッパ文化の歴史を覆うファンタスムとしての古代が、つねに両極性を帯びながら、意味論的転倒を繰り返してきた過程をたどる。なるほどそれは、ナルシシズム的な再認というかたちをとるのだが、実態としては、古代はむしろそこであらたにそのつど生み出されつづけているファンタスムであると言うべきなのだ。それはヨーロッパ文化が見つづけているアルカディアの夢、もしくは魔に憑かれた悪夢なのである」(田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社、2001年、p.336)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 11/09/2026
双子のモチーフ(瓜二つの人物が登場する)や演劇のモチーフ(不意に演劇の時間に入っていく瀬戸康史の身振りは、それ自体不気味なものではある)、そして震災の影など、濱口作品にはお馴染みの要素が頻出するが(おそらく、ある程度は原作の要素だろう)、そのどれも、この佇まいの恐ろしさに及ぶものではないように思える。被写界深度を絞り、輪郭を際立たされた人型は、映画そのものを乗り越えていく。物語上ですべての可能性が蹂躙され、剥き出しの死の可能性だけが残ったあとに出現するラストカットに仮託されているのは、おそらくはその超越の気配だ。しかしそれは、あるポイントで死と繋がっている
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 11/09/2026
濱口竜介監督の『寝ても覚めても』観たが、あまりに恐ろしい映画だった。人間がそこに佇んであることの恐ろしさが、裂け目のようにして映画の時間のそこここにはしっている。冒頭のバイク事故のシークエンスが示唆するように、主人公はあるポイントで明確に死者の側に立ったのであり、そのことが、あの恐ろしい佇まいをひとつの疎外(感)として支えているのだと思う。死者としてこの世界を生きること、それは彼方にしかない死の可能性をまなざし続けることであり、終盤近くにある防波堤から海を見つめる主人公の佇まいは、鑑賞者を襲い続けてきた恐ろしさの出現として理解することができる。そしてラストカットにおいて、その目線はこちらへ向く
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 03/09/2026
小砂川チト『家庭用安心坑夫』(講談社、2022年)。コロナ禍を舞台に、きわめて私秘的な領域で狂っていく個人をホラー的に描き出した作品で、三人称のトリックも利いているのだけど、たとえば同じように現実の崩壊と不可能な帰郷を取り扱った『光のそこで白くねむる』などと比べてきわめて端正であると感じた。不明なところは不明なものとして、逆に判明なところは判明に伝わる建築的な親切さがある。そしてそれは、おそらく本作を貫く不条理(それはホラーの創作論的条件にほかならない)が行為ではなく認識の領域に属していることにかかわっているのだと思う。ここでは当為からではなく、存在から(ある種の)私小説が起動している。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 31/08/2026
『テオレマ』(パゾリーニ、1968年) プライムで配信が終わりそうだったので急いで視聴。とあるブルジョワの一家が、神聖な魅力をまとった男との同居によって崩壊していく、というのが一応の物語だが、全体として幻想的な(というか、神話的な)ムードで進行していくので、劇映画的な感情の動きはあまり喚起されない。「男」は多くのシーンで太陽をバックに撮影され、露骨に神的なものと重ね合わされる。聖および性に翻弄される人々が次々に崩壊していくさまは、しかし悲劇以外のものではありえないだろう。そして彼らを追い込んでいくリアリズムの明け透けとさえ言える聖性は、鑑賞の体験をある独特の緊張感の中に放り込んでいたかにみえる
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 29/08/2026
市川崑の『炎上』(1958年)観た。本当に全員が言ってそうだが、ラストはさすがに改悪だと思う。原作のシーンの取捨選択は端正だし、構成的なショットもうまいと思うけれど、全体として文学的なダイナミズムを不埒なほどに抑圧してしまっていると感じた。この映画は「金閣を焼かねばならぬ」という不条理な啓示に貫かれ、「生きようと私は思った」というさらなる不条理に終わる、つとめて一人称的な原作を三人称に改竄してしまっている(原作でも三島/放火犯は分裂しているが)。とはいえオーバーラップやジャンプカットが作り出す、世界から疎外されたものの時間感覚は端正な美しさをもってわれわれに迫ってくるかにみえた。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 10/08/2026
他方、たとえば「地方都市のタラ・リピンスキー」やデビュー作「16歳はセックスの齢」に見られるような、性を相対化するような幻想への賭け、そしてその賭けから果てしなく隔てられてしまうひとつの魂への感覚に伏在する切実さを、自分は無視することができない。ここにおいて地方都市の閉塞感は、じつのところ二重襞のような入り込み方をもってわれわれを圧していたことが明らかになる。中央と周縁、といった図式では、あるいは増田ファイル的な地方衰退論では掬い上げられない、まさに文学としか呼ぶことのできないような領域の真相のごときものが、絶妙な筆致で描き出されている。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 10/08/2026
本作において〈解放〉は、じつのところ上京にも現在の地方都市にもなく、過去のささやかな幸福のうちに位置付けられていて、語り手たちの多くはその喪失によって苦しめられている。そしてその幸福(特別な時間)は、地方都市の(こう言ってよければマイルドヤンキー的な)コミュニティの中に見出されていたものだ(すべての短編に登場する椎名はその象徴といえるだろう)。それは明け透けな性や階級(上昇婚への素朴な欲望は本作の最も生臭い、しかし切実な要素だ)への認識と結びつきもする。そして正直に言えば、そこが個人的に最も乗り切れなかったところだった。これは同時期の地方都市論にも同じことが言えるのだが……
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 10/08/2026
山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎文庫、2015年) テン年代ロードサイド文学の代表作ということで、重い腰を上げてようやく読了した。地獄のような瞬間と恩寵のような瞬間が交互に訪れるきわめて健康に悪い読書体験だったが、これを単なる「あるあるネタ」の羅列として安全に消費することほど醜悪なことはないだろう(誰とは言わないけど)。ここでロードサイドの閉塞感は、上京やその他諸々の挫折の後に立ち現れた漠とした諦念、人生への希望のなさの手触りとしてあるのだが、それは「出られなさ」とは似て非なるものだと感じる。だからこれはオタク的なもの、《あの夏が飽和する》的なものとは決定的なところで異なる。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 08/08/2026
『戦火のかなた』(ロベルト・ロッセリーニ、1946年) 戦時下のイタリアを舞台に、連合国軍上陸の最中に翻弄される個人を中心とした六つの物語が展開される。目を引いたのは、物語の多くが言葉の疎通しなさを軸に組み立てられていることだった。英語とイタリア語の間にある懸隔、それはアメリカとイタリアの間にある懸隔であり、その話者であるわたしとあなたの懸隔でもある。その懸隔を前提として現れてくる鮮烈な一瞬の交感をカメラは巧みに切り取るが、そのほとんどは悲劇に終わってしまう。兵士は死に、犠牲者は生き返らず、待ち人は現れない。すべてが挫折する。その悲劇的なリアリズムはひたすらに痛切なものとして迫ってくる。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 05/08/2026
金嬉老事件、秋山駿が書いている限りでしか知らないのだが、その"卑小さ"(これが相対的に"残っていない"ことの直接的な要因だろう)と不釣り合いな影響の大きさ、そしておそらくは日本初の劇場型犯罪であるという前例のなさ(それは犯罪をめぐる言説を否応なしに書き換えてしまうということを意味する)の複合という点で、いま改めて考える必要があるのではないか、という気持ちになっている
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 05/08/2026
ようやく『デッドマンズ・ワイヤー』(2026年)を観た。ガス・ヴァン・サントはこれが初。実在の劇場型犯罪をベースにした映画で、テロというものの本質がメディアのハックにあるのだとすればこれほど「現代的」な映画もないような気がする。ビル・スカルスガルド演じる犯人は、原始的なワイヤー・トラップの設置以外に巧妙さを発揮させることができず、自分の犯行を制御し切ることができない。この「破綻が明らかになりつつあってもなお止まることができない」感じは、その軽薄さゆえに胸に迫るものがある。日本の例でいえば永山事件というよりむしろ金嬉老事件的なのではないか(よく知らないが……)。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 05/08/2026
入力文字数が一定超えると表示されなくなる(制限は超えていない)不具合、早急に直されてほしい……
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 05/08/2026
本作はそうした構図を用意した上で、そこに暴力の気配を読み取りもする。死なざるを得なかった少女たちの怨念のごときもの、そして死に供せられることに挫折し続けたひとりの登場人物の昏い情念のごときものが、この映画を綺麗な悲劇から怨念と喪をめぐるホラーへと引き戻している。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 05/08/2026
これは原作側の要素だろうけど、同作の文芸面で重要な役割を果たすオフィーリアのモチーフはそれとして意味を通せそうだとも思った。終盤にはジョン・エヴァレット・ミレーの《オフィーリア》そのものが出てくるわけだけど、それが抜きがたくまとってしまう「犠牲に供される女性」の表象の問題(女性の死にはかなさを仮託する屈折した欲望のまなざし)を、本作は少なくとも文芸面では読み替えている。悲恋によるオフィーリアの死という原典が、ここでは鏡像としての少女の死(ひとりでありながらそのままふたりでもあるような単位の死)になっているのだけど、
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 05/08/2026
黒沢清の弟子筋(らしい)安里麻里という監督のホラー映画『劇場版零〜ゼロ〜』(2014年)を見ていたが、かなり良かった。抽象度の高い物語(原作はゲームを大塚英志がノベライズしたもの)をコンセプチュアルな画面構成で意欲的に撮り切っているという感じがする。女学校という舞台設定(少女へのフェティシシズム)、くすんだPOV風のショットは山田尚子を思わせるところもある。同作では登場人物を映した一枚の写真が重要な役割を果たすのだけど、被写界深度をあえて手前に合わせて浅目にとることで、現前と再-現前=表象を撹乱するのは、ホラー的にも批評的にも面白いと思う。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 28/07/2026
『君の名は。』は二、三度ほどしか見返していないのだが、忘れられないシークエンスがある。彗星の落下が迫るなか、三葉の肉体の中に入った瀧が三葉の父親に詰め寄るシークエンスだ。「子ども(=2000年代生まれ)の戯言」として三葉=瀧を退ける父親にたいし、三葉=瀧はその胸ぐらを掴み叫ぶ「バカにしやがって」。それに対し父親は返答する「お前、誰だ?」。あれから10年が経つが、ここにはテン年代という事態のすべてが書き込まれているのではないか、と思わざるをえない。あのシークエンスにこそ、われわれな本当に語るべき事柄が胚胎されていたのではなかったか?
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 27/07/2026
「究竟頂の開かない扉が象徴するように、「私」は内界と外界との間の「鍵」つまりは|言葉《傍点》を手に入れることができない。この意味で「金閣寺』において「私」と書かれた存在は、それを書く存在の他者である。「私」という一人称のもとに展開される記述と、記述する溝口の現前との間には断絶があり、彼を彼自身の言葉へと導く「扉」はついに開かない。『金閣寺』の文体には、溝口を「私」から疎外=他者化し、彼が自身の「個人的な声」に到達することを阻む否定性が蔵されているのである」(梶尾文武『否定の文体 三島由紀夫と昭和批評』p.149)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 21/07/2026
『ドイツ零年』(ロベルト・ロッセリーニ、1948年) WW2後、戦災により廃墟と化したベルリンを舞台に、時代や状況、戦争が(を)もたらした一切のものに翻弄され、蹂躙される個人を、ひとりの少年に仮託して描き出した一作。病弱な父と元兵士の(そのゆえに引きこもる)兄を補助するために少年は悲劇的な労働を行い、次第に非合法の稼業へと手を染めるようになる。戦前・戦中をしるしづけていたあらゆる規範や倫理、思想がもはや廃墟となった後の世界で、少年は生き抜こうとするのだが、まさにそのことによって圧倒的な現実に押しつぶされてしまう。その悲劇が、黒々としたベルリンの陰翳に鬱々と映じていくさまには、凄絶な美しさがある
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 20/07/2026
文芸批評家の使う定式(思考法)として論じる対象が書いた批評を取り上げて「ここで言われていることはそのまま[論じる対象]にも当てはまる」みたいに書くやつがあり、個人的にはかなり好きなのだが、それはそれとして種々の問題が生じてきそうなやり口だとは思っている(Xからの転載)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 20/07/2026
朝からトゲナシトゲアリの再生数ランキング(みたいなやつ)を上から順に聴き、完全に至っている
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 19/07/2026
『ドイツ零年』を視聴していたのだが、アルコールにより死ぬほど眠くなり断念した
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/07/2026
『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ 、1945年) ナチ占領下のローマを舞台に、対独レジスタンスの活動とその闘士の敗北を描いた一作。前半は子どもたちの世界と暗躍するレジスタンスの世界がパラレルに描かれるが、一人の母親の死により(あるいは状況の逼迫により)、映画の視点はSSによる抵抗運動の蹂躙に一本化され、闘士二人の死により(旗頭と神父)幕を閉じる。その死は提示される無数の選択肢、自由に選びうる人生を拒むことによってもたらされたものだろう。彼らは誠実であるがゆえに抵抗せざるをえなかったのであり、血も凍るような戦時下においては、不自由さを引き受けることがむしろ真の自由を獲得することになる、とか
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/07/2026
映画を見てなさすぎるため、ひとまずネオレアリズモの主要作品を見つつ、感想を書いていく(以下、ツリーで繋げる)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/07/2026
ヴィルヌーヴ、DUNEから早いところ解放されて現代劇撮ってくれないかな……
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/07/2026
note.com/gairon/n/n95... 自己紹介がてら、寄稿した中でおそらく一番思索的な文章を上げる(荒削りではあるが……)
note.com
ぼやけた、かなしみの鏡像──八木重吉と「外側の自己」についての素描|同人雑誌『概論』
文責:城輪アズサ  かなしみが萌した日のことを、わたしはもはや覚えていない。  それはいつしかわたしの中に棲みつき、わたしをわたしたらしめるひとつのエレメントになった。然るべき方向性と、然るべき激しさをたたえた感情とは決定的に異なるそれ。湿っていて、沈静するようなそれを、わたしは扱いあぐねていた。  キリスト教詩人として知られる八木重吉(1898-1927)は、まさにその「かなしみ」についてしる...
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/07/2026
ブルスカを頑張りたいので、手始めにディディ=ユベルマンについて言及しているアカウントを片っ端からフォローするところから始めようと思う(卒論で主に扱うので)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 12/07/2026
youtu.be/mhQwRL1rFP0?... 良すぎるので全員聴いたほうがいい
youtu.be
【歌ってみた】メクルメ / covered by ヰ世界情緒
YouTube video by ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 11/07/2026
どう語られているかは知りませんでした……なるほど…… 文体のトリック、なんにせよそのままやると言葉の広い意味での装飾過多になる感じがあるので(たぶん……)、なにか重大な事柄をかませたうえでしか成立は困難なんではないか、と自分も思います
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 03/07/2026
岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』、よく知らないのだがこれがいわゆる移人称というやつなのだろうか。エスノグラフィー的な饒舌さをたたえた語りをフックに複数の視点・時間・状況がシームレスに繋がるのは、創作論的にはかなり面白いが、あくまでも「他者であるかのように語る」にすぎない、(複数化された)一人称のいかがわしさを隠蔽するという点で隠微な暴力の気配があると思う。ただここに収められたふたつの作品は、ある面でそれにとても自覚的だった気はする。前者におけるイラク侵攻、後者における夫の本心は、それぞれ「移」のトリックによって記述できない、不可能な一点として小説を規定している
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 03/07/2026
『大陽の季節』(1956年)のとりあえずの所感
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 22/06/2026
眠いのに眠れないとしか言いようがない
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 22/06/2026
眠すぎて気絶していたので改めて寝ようとしたら眠れなくて(本当に何?)Twitterを開いたら落ちていた。どこにも入ることができない
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
『ブローニュの森の貴婦人たち』 ロベール・ブレッソン監督の映画。元夫に復讐しようとする妻と、彼女がその道具にする(娼婦だった過去をもつ)踊り子の女をめぐって展開される物語は、タイトルになっている「森」を例外としてつねに室内で展開される。空間は白い扉によって区分され、エレベーターの乗降がひとつのドラマを構成する。そして物語の最後に、自らが復讐の道具だったことを夫に告げられた踊り子の女は「家に置いてください」と懇願することでこの密室の劇を完成させもする。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
『はるヲうるひと』 佐藤二郎監督・脚本の映画。離島の売春宿を統括する佐藤二郎と、それに責め苛まれる兄妹を軸に、一家をめぐるある悲劇的な物語が展開される。「前作」にあったパロディアスな世界観は抑制されており、反復的な状況(買えない軟膏、虫歯、繰り返される売春)はつねに終わりの予感をはらんだものとして提示される(軟膏を塗らなければ/虫歯を治療しなければ身体は崩壊していく)。そしてそこで浮上してくるものこそ、父の不能性(による現にある生の無価値化)だった。そしてそれを背景に中提示される救済のモデルは、前作同様に無理矢理に笑う=身体の痙攣的反応を逆用することだった。しかしそれが佐藤二郎を救うことはない
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
『memo』 佐藤二郎初監督・脚本の映画。自身が当事者であるところ強迫神経症をテーマにしていて、本作の主人公、およびその叔父である佐藤二郎は、その痙攣的な身体反応によってたえず映画の時間に切れ目を入れる。脚本は反復的な状況の中で遅滞し、そのことが身体の否応なさを果てしなく際立たせていく。そしてそれを取り巻く世界は、ある殺伐さをたたえたテレビ・バラエティ的な過剰にパロディアスなものとして描かれることになる。この出口なき、痙攣的な反応だけが辛うじてリアルであるような世界の中で、しかし主人公はその反応において、最後には生きることを肯定する。しかしその裏には、ある生きられなかった生が張り付いている
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
最近見た旧作映画の感想 ↓
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
『名無し』 その猟奇性に反してきわめて誠実な映画だと思う。本作における暴力はつねに匿名性から有名性へ向けて、ほぼ自動的に(つまり否応なく)発生する。冒頭に佐々木蔵之介演じる刑事が被害者の"名前"を読み上げて事件の残虐さを強調(し倫理的に非難する)シーンがあるが、これはアイロニーと見るべきだろう。「犯人」は彼らが有名な存在であるがゆえに殺すのだから。本作は二つの時系列を並置し、この否応ない暴力を「犯人」が自ら引き受ける過程を描き出す。そしてその起結として彼は、自らもまた有名な存在として、もうひとりの自分の「匿名の」暴力を引き受けて死ぬことになる。この誠実さを、自分はまだ受け止めきれずにいる。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
生を肯定することができない、というのが暗黙の前提になっている。その世界観に鋭く対立するのが木野で、本編においても超能力者=疎外されたものとしての宿命を過剰に引き受けた結果として暴走していたこの「仮面ライダー」は、同作においてはきわめて矮小な悪として現れ、まさに怪物としか言いようがないような姿へと「変身」する(ここではじめてその語が登場する)。これはまさに奇形化した平成一期の可能性であり、敏樹が選び取らなかった可能性の挫折だといえるはず。 あと、エンディングで全員が自らの手で有罪性を引き受ける展開のは、ギャグであると同時に、ライダーそのもののアナーキーさを自覚的に背負っていて、個人的には好み。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
『アギト 超能力戦争』 「映画」としては決してよくできた作品ではない、という前提はまず言っておく必要があると思う。シン仮面は言わずもがな、令和仮面ライダーの劇場版の方が映像面で遥かに意欲的で、結局のところ"いつもの"Vシネ仕事になっている感は否めないと思う(これは企画や脚本というより監督の技量ではないか)。ただそれを前提に言えば、同作はきわめてよくできていると思う。Vシネということでいえば本作はきわめて『パラリゲ』と似ていて、ここでは露悪的なまでに過剰なグロテスクさ(悲劇的なもの)と、おかしみのある状況や演出(喜劇的なもの)がそのままに混在している。そしておそらく、そうした手法を通じてしか→
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
『オールドオーク』 経済的に衰退していく地方の地元コミュニティと、そこに移住してきた移民の軋轢を描きながら、排外主義的な身振りがいかに表出するか、ということを多角的に描き出した一作。重要なのはパブ店主を軸に物語が進むところで、この主人公はつねに「場」を、広い意味での「家」を持つ者としての責任を否応なく問われる。移民排斥に手を貸すのか、逆に移民コミュニティを全面的に援助するのか、という二択を、当人の葛藤に反して選び取らざるをえなくなる。もちろん主人公は決して裕福ではない(そのことで葛藤しもする)のだが、それでも彼は「持つ者」として機能してしまう。これはその責任についての物語でもあったはず。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
なんか単に連投するのもあれなので、以下ツリーに新作映画の感想を繋げていきたい ↓
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 09/06/2026
彼女は死に行くものとして欲望されながら、その欲望の構成的な質において演じる。そして映画終盤は、この構成性が果てしなく高められ、選び取られなかった言葉、選び取られなかったイメージ、選び取られなかった人生としての「死に行くもの」の亡霊の回帰あるいは憑依がたえず繰り返されるプロセスとして理解することができる。そして彼女はその亡霊に成り代わった瞬間に、自ら「死に行くもの」へと変貌するほかなかった。だがそれは、繰り返し登場する鏡のモチーフによってすでに予見されていた事柄なのかもしれない。そこに映し出される何の虚飾もない身体イメージは、こうであったかもしれない可能性、生の別様な可能性を反復の中で抑圧する。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 09/06/2026
ヒッチコック『めまい』(1958年)、アナロジカルなモチーフ同士の接続と症候的=反復強迫的なイメージの繰り返しが支配する映画世界を構築しながら、演じること(自分のものではない体を生きること)を軸にサイコ・サスペンスを撮り切っていてあまりにもすごすぎる。本作でヒロイン「が」演じるのは、現に存在する誰かでありながら、同時にその誰かではない架空のもの、死すべきものとして構築されたつねにすでに亡霊であるようなもので、彼女は死を軸にしてしか思いを遂げることができない。彼女が向かい合う「探偵」はトラウマ的な反復強迫の中でこの死に行くものをそれとして欲望してしまうが、彼女はこの欲望にそのまま応答するしかない
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 07/06/2026
よりもい第12話の素晴らしさについて考えている。本当にたどり着いてしまった「宇宙よりも遠い場所」(それはこの可視性の世界の臨界であり、ひとつの閾でもある)にあって、白報の道のりに報いるのは、メールというかたちでこの世界内に刻印された情念の記録だった。この「記録」というのが重要で、自分から隔たった自分の刻印は、情念が否応なく当人を作用させるのとは違う仕方で、揺るがない事実性として当人を世界に繋ぎ止める。しかしそれを受け取るべき人間はこの世界に不在であり、ここには繋ぎ止められなかったことと繋ぎ止められてしまっていることの凄絶な関係が存在する。しかし事実性は、そうした凄絶さとは無関係に人を肯定する
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 21/05/2026
「考えないために考える。考えているひとがいるのだが、そんなひとはいないふりをする。共生の平和は、もしそんなものがありうるとしたら、そのようなアクロバットなしには維持できない。というよりも、平和とはほんらいはそういう逆説を抱えるもので、隔離の平和はあくまでも理念形だと考えたほうがいいのかもしれない。隔離の平和といっても、他者の完全な隔離はありえないのだから、不愉快は消えないし衝突は起こる。だれかがそれを調整している。平和が成立するためには、それを支える裏方が必要なのだ」(東浩紀『平和と愚かさ』p.104-105)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 21/05/2026
しかしこういう言い方自体、同作の持っている豊かさを十分に反映したものとは言いがたいような気がする。何度となく見ている(IPのファンには及ばないだろうが)のだが、同作は明らかにこういった構図には還元できない
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 21/05/2026
『リズと青い鳥』(アニメのほう)について考えている。同作について語るのは自分にとってとても難しいのだが、それでも何か言うとすれば(言いたいので)、本作にとって重要なのはむしろ「描かれていない事柄」だと思う。ここでは「歩調の合わない」(=独自の時間感覚をもつ)みぞれの視点を基軸にすることで、IPそのものの核心にある権謀術数的な、戦慄するような教室空間の恐怖が抑制されている。同じ空間・同じ(IPのものとしての)〈物語〉を描きながらも、世界の現れ方がまるで異なっている。そのことは、本作の(ベタな意味での)物語が「鳥籠」からの飛翔を主題にしていることとパラレルであるように見える。ワナビからの逃走。
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