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城輪アズサ

@wheelfort.bsky.social
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見たコンテンツの感想とか上げていきます。 note→ note.com/wheelfort 同人サークルのほう→ santarosemedia.booth.pm

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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 03/10/2026
「ヴァールブルクはヨーロッパ文化の歴史を覆うファンタスムとしての古代が、つねに両極性を帯びながら、意味論的転倒を繰り返してきた過程をたどる。なるほどそれは、ナルシシズム的な再認というかたちをとるのだが、実態としては、古代はむしろそこであらたにそのつど生み出されつづけているファンタスムであると言うべきなのだ。それはヨーロッパ文化が見つづけているアルカディアの夢、もしくは魔に憑かれた悪夢なのである」(田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社、2001年、p.336)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 11/09/2026
濱口竜介監督の『寝ても覚めても』観たが、あまりに恐ろしい映画だった。人間がそこに佇んであることの恐ろしさが、裂け目のようにして映画の時間のそこここにはしっている。冒頭のバイク事故のシークエンスが示唆するように、主人公はあるポイントで明確に死者の側に立ったのであり、そのことが、あの恐ろしい佇まいをひとつの疎外(感)として支えているのだと思う。死者としてこの世界を生きること、それは彼方にしかない死の可能性をまなざし続けることであり、終盤近くにある防波堤から海を見つめる主人公の佇まいは、鑑賞者を襲い続けてきた恐ろしさの出現として理解することができる。そしてラストカットにおいて、その目線はこちらへ向く
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 03/09/2026
小砂川チト『家庭用安心坑夫』(講談社、2022年)。コロナ禍を舞台に、きわめて私秘的な領域で狂っていく個人をホラー的に描き出した作品で、三人称のトリックも利いているのだけど、たとえば同じように現実の崩壊と不可能な帰郷を取り扱った『光のそこで白くねむる』などと比べてきわめて端正であると感じた。不明なところは不明なものとして、逆に判明なところは判明に伝わる建築的な親切さがある。そしてそれは、おそらく本作を貫く不条理(それはホラーの創作論的条件にほかならない)が行為ではなく認識の領域に属していることにかかわっているのだと思う。ここでは当為からではなく、存在から(ある種の)私小説が起動している。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 29/08/2026
市川崑の『炎上』(1958年)観た。本当に全員が言ってそうだが、ラストはさすがに改悪だと思う。原作のシーンの取捨選択は端正だし、構成的なショットもうまいと思うけれど、全体として文学的なダイナミズムを不埒なほどに抑圧してしまっていると感じた。この映画は「金閣を焼かねばならぬ」という不条理な啓示に貫かれ、「生きようと私は思った」というさらなる不条理に終わる、つとめて一人称的な原作を三人称に改竄してしまっている(原作でも三島/放火犯は分裂しているが)。とはいえオーバーラップやジャンプカットが作り出す、世界から疎外されたものの時間感覚は端正な美しさをもってわれわれに迫ってくるかにみえた。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 10/08/2026
山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎文庫、2015年) テン年代ロードサイド文学の代表作ということで、重い腰を上げてようやく読了した。地獄のような瞬間と恩寵のような瞬間が交互に訪れるきわめて健康に悪い読書体験だったが、これを単なる「あるあるネタ」の羅列として安全に消費することほど醜悪なことはないだろう(誰とは言わないけど)。ここでロードサイドの閉塞感は、上京やその他諸々の挫折の後に立ち現れた漠とした諦念、人生への希望のなさの手触りとしてあるのだが、それは「出られなさ」とは似て非なるものだと感じる。だからこれはオタク的なもの、《あの夏が飽和する》的なものとは決定的なところで異なる。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 05/08/2026
ようやく『デッドマンズ・ワイヤー』(2026年)を観た。ガス・ヴァン・サントはこれが初。実在の劇場型犯罪をベースにした映画で、テロというものの本質がメディアのハックにあるのだとすればこれほど「現代的」な映画もないような気がする。ビル・スカルスガルド演じる犯人は、原始的なワイヤー・トラップの設置以外に巧妙さを発揮させることができず、自分の犯行を制御し切ることができない。この「破綻が明らかになりつつあってもなお止まることができない」感じは、その軽薄さゆえに胸に迫るものがある。日本の例でいえば永山事件というよりむしろ金嬉老事件的なのではないか(よく知らないが……)。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 05/08/2026
入力文字数が一定超えると表示されなくなる(制限は超えていない)不具合、早急に直されてほしい……
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 05/08/2026
黒沢清の弟子筋(らしい)安里麻里という監督のホラー映画『劇場版零〜ゼロ〜』(2014年)を見ていたが、かなり良かった。抽象度の高い物語(原作はゲームを大塚英志がノベライズしたもの)をコンセプチュアルな画面構成で意欲的に撮り切っているという感じがする。女学校という舞台設定(少女へのフェティシシズム)、くすんだPOV風のショットは山田尚子を思わせるところもある。同作では登場人物を映した一枚の写真が重要な役割を果たすのだけど、被写界深度をあえて手前に合わせて浅目にとることで、現前と再-現前=表象を撹乱するのは、ホラー的にも批評的にも面白いと思う。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 28/07/2026
『君の名は。』は二、三度ほどしか見返していないのだが、忘れられないシークエンスがある。彗星の落下が迫るなか、三葉の肉体の中に入った瀧が三葉の父親に詰め寄るシークエンスだ。「子ども(=2000年代生まれ)の戯言」として三葉=瀧を退ける父親にたいし、三葉=瀧はその胸ぐらを掴み叫ぶ「バカにしやがって」。それに対し父親は返答する「お前、誰だ?」。あれから10年が経つが、ここにはテン年代という事態のすべてが書き込まれているのではないか、と思わざるをえない。あのシークエンスにこそ、われわれな本当に語るべき事柄が胚胎されていたのではなかったか?
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 27/07/2026
「究竟頂の開かない扉が象徴するように、「私」は内界と外界との間の「鍵」つまりは|言葉《傍点》を手に入れることができない。この意味で「金閣寺』において「私」と書かれた存在は、それを書く存在の他者である。「私」という一人称のもとに展開される記述と、記述する溝口の現前との間には断絶があり、彼を彼自身の言葉へと導く「扉」はついに開かない。『金閣寺』の文体には、溝口を「私」から疎外=他者化し、彼が自身の「個人的な声」に到達することを阻む否定性が蔵されているのである」(梶尾文武『否定の文体 三島由紀夫と昭和批評』p.149)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 20/07/2026
文芸批評家の使う定式(思考法)として論じる対象が書いた批評を取り上げて「ここで言われていることはそのまま[論じる対象]にも当てはまる」みたいに書くやつがあり、個人的にはかなり好きなのだが、それはそれとして種々の問題が生じてきそうなやり口だとは思っている(Xからの転載)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 20/07/2026
朝からトゲナシトゲアリの再生数ランキング(みたいなやつ)を上から順に聴き、完全に至っている
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 19/07/2026
『ドイツ零年』を視聴していたのだが、アルコールにより死ぬほど眠くなり断念した
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/07/2026
映画を見てなさすぎるため、ひとまずネオレアリズモの主要作品を見つつ、感想を書いていく(以下、ツリーで繋げる)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/07/2026
ヴィルヌーヴ、DUNEから早いところ解放されて現代劇撮ってくれないかな……
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/07/2026
note.com/gairon/n/n95... 自己紹介がてら、寄稿した中でおそらく一番思索的な文章を上げる(荒削りではあるが……)
note.com
ぼやけた、かなしみの鏡像──八木重吉と「外側の自己」についての素描|同人雑誌『概論』
文責:城輪アズサ  かなしみが萌した日のことを、わたしはもはや覚えていない。  それはいつしかわたしの中に棲みつき、わたしをわたしたらしめるひとつのエレメントになった。然るべき方向性と、然るべき激しさをたたえた感情とは決定的に異なるそれ。湿っていて、沈静するようなそれを、わたしは扱いあぐねていた。  キリスト教詩人として知られる八木重吉(1898-1927)は、まさにその「かなしみ」についてしる...
011
城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/07/2026
ブルスカを頑張りたいので、手始めにディディ=ユベルマンについて言及しているアカウントを片っ端からフォローするところから始めようと思う(卒論で主に扱うので)
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 12/07/2026
youtu.be/mhQwRL1rFP0?... 良すぎるので全員聴いたほうがいい
youtu.be
【歌ってみた】メクルメ / covered by ヰ世界情緒
YouTube video by ヰ世界情緒 -Isekaijoucho-
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 03/07/2026
岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』、よく知らないのだがこれがいわゆる移人称というやつなのだろうか。エスノグラフィー的な饒舌さをたたえた語りをフックに複数の視点・時間・状況がシームレスに繋がるのは、創作論的にはかなり面白いが、あくまでも「他者であるかのように語る」にすぎない、(複数化された)一人称のいかがわしさを隠蔽するという点で隠微な暴力の気配があると思う。ただここに収められたふたつの作品は、ある面でそれにとても自覚的だった気はする。前者におけるイラク侵攻、後者における夫の本心は、それぞれ「移」のトリックによって記述できない、不可能な一点として小説を規定している
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 03/07/2026
『大陽の季節』(1956年)のとりあえずの所感
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 22/06/2026
眠すぎて気絶していたので改めて寝ようとしたら眠れなくて(本当に何?)Twitterを開いたら落ちていた。どこにも入ることができない
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
最近見た旧作映画の感想 ↓
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/06/2026
なんか単に連投するのもあれなので、以下ツリーに新作映画の感想を繋げていきたい ↓
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 09/06/2026
ヒッチコック『めまい』(1958年)、アナロジカルなモチーフ同士の接続と症候的=反復強迫的なイメージの繰り返しが支配する映画世界を構築しながら、演じること(自分のものではない体を生きること)を軸にサイコ・サスペンスを撮り切っていてあまりにもすごすぎる。本作でヒロイン「が」演じるのは、現に存在する誰かでありながら、同時にその誰かではない架空のもの、死すべきものとして構築されたつねにすでに亡霊であるようなもので、彼女は死を軸にしてしか思いを遂げることができない。彼女が向かい合う「探偵」はトラウマ的な反復強迫の中でこの死に行くものをそれとして欲望してしまうが、彼女はこの欲望にそのまま応答するしかない
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 07/06/2026
よりもい第12話の素晴らしさについて考えている。本当にたどり着いてしまった「宇宙よりも遠い場所」(それはこの可視性の世界の臨界であり、ひとつの閾でもある)にあって、白報の道のりに報いるのは、メールというかたちでこの世界内に刻印された情念の記録だった。この「記録」というのが重要で、自分から隔たった自分の刻印は、情念が否応なく当人を作用させるのとは違う仕方で、揺るがない事実性として当人を世界に繋ぎ止める。しかしそれを受け取るべき人間はこの世界に不在であり、ここには繋ぎ止められなかったことと繋ぎ止められてしまっていることの凄絶な関係が存在する。しかし事実性は、そうした凄絶さとは無関係に人を肯定する
010
城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 21/05/2026
「考えないために考える。考えているひとがいるのだが、そんなひとはいないふりをする。共生の平和は、もしそんなものがありうるとしたら、そのようなアクロバットなしには維持できない。というよりも、平和とはほんらいはそういう逆説を抱えるもので、隔離の平和はあくまでも理念形だと考えたほうがいいのかもしれない。隔離の平和といっても、他者の完全な隔離はありえないのだから、不愉快は消えないし衝突は起こる。だれかがそれを調整している。平和が成立するためには、それを支える裏方が必要なのだ」(東浩紀『平和と愚かさ』p.104-105)
000
城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 21/05/2026
『リズと青い鳥』(アニメのほう)について考えている。同作について語るのは自分にとってとても難しいのだが、それでも何か言うとすれば(言いたいので)、本作にとって重要なのはむしろ「描かれていない事柄」だと思う。ここでは「歩調の合わない」(=独自の時間感覚をもつ)みぞれの視点を基軸にすることで、IPそのものの核心にある権謀術数的な、戦慄するような教室空間の恐怖が抑制されている。同じ空間・同じ(IPのものとしての)〈物語〉を描きながらも、世界の現れ方がまるで異なっている。そのことは、本作の(ベタな意味での)物語が「鳥籠」からの飛翔を主題にしていることとパラレルであるように見える。ワナビからの逃走。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 19/05/2026
いまはそこまで読んでいないのだが、人生にまるで希望というものがなかった浪人時代には、ほとんど縋るように伊藤計劃を読んでいたのをふと思い出す。それも『ハーモニー』とか『虐殺器官』ではなく(後者もまあ読んではいたのだが)『伊藤計劃記録1』で、一体どうして実写版キャシャーンとか攻殻SACとかその他いろいろの話を当時の自分が切実に欲していたのかはまるで忘れてしまった。点景みたいな"and all that could have been"(NINネタらしい)と題されたエントリはかなりの完成度だし今でも好きなのだが……
010
城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/05/2026
移行のために作品の感想以外のことも呟きたいのだが、体調が終わっているため書くべき事柄と適切な身体的負荷がない
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 02/05/2026
森田芳光『家族ゲーム』(1984年)、パロディ的な奇妙さをもった過度に人工的な空間構成をバックに、松田優作が暴力的に物語をリードするのは目に楽しいが、家族ものが苦手なのでかなりいたたまれない(なんか用法間違ってる気がするが……)気持ちになった。それは人間の陰翳が行き届いて描かれている、ということに由来するのではない。本作はむしろ類型的なところに居直り、それを嘲弄しつつ暴力的に解体するところにその主眼があるだろうと思う。しかしここで類型の前提として想定されているものがひたすらに息苦しい。おそらくいまこうした映画は撮りえないのだろうが、そのことを素直に肯定してしまいたくなる
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 02/05/2026
ベルイマン『野いちご』(1962年)、かなり月並みな感想だが、死、老い、信仰、不羲みたいな重厚なテーマが重大なままに提示されていて襟を正される。しかし老境に至ってなお少年期の幸福な思い出だけが(映画の最後に)束の間の救済をもたらす、みたいなのは(これも月並みだが)かなり驚いたというか、その視覚的・想像的なレベルでの薄弱さが、上に列挙したような「重厚な」事柄に拮抗しうるものとして提示されるということには戦慄せざるをえない。肯定的な結論そのものが、生(あるいは「老い」ということ?)の悲惨さをいっそう際立たせている
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 19/04/2026
長久允『炎上』(2026)、かなり食らってしまった。トー横を舞台にした現代劇……というだけであらゆる文脈が乗っかってしまう言説環境にわれわれはいるわけだが、本作はそれを正面から引き受けるように擬似ドキュメンタリー的な構図や撮影手法を積極的に用いている。人物の顔や姿ははっきりと映らず、カットあたりの説話構造(=コンポジション)は引き裂かれ、一人称の語りは撮影者不詳のインタビュー映像によって多層化される。こうした技法は作中でクラシックに対する冷淡な言及があることを踏まえるなら、庵野秀明や岩井俊二のデジタルシネマに対するある種の挑戦と理解することができるかもしれない。しかしここで現実は肯定されない
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 19/04/2026
『ハムネット』(2026)、これまでのクロエ・ジャオ映画をしるしづけてきたアメリカ的な開かれた風景に対して、本作は一貫して中世の森や都市(閉ざされた風景、と言うべきだろうか?)を映していて、そのことが本作に独特の存在感覚を刻んでいるように思う。シャーマン的な主人公が出産に際して森に穿った穴、川の氾濫、そして疫病と「死神」。本作で閉塞的な自然=風景は人間をその秩序から切り離して攫っていく。そのことは可視性の外側にある黒い穴によって象徴的に描き出されるのだけど、本作ではそうした残酷さにフィクションを対立させているという点で、これまでの作品をより徹底化したものとして見出せるか。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/04/2026
キアロスタミ『桜桃の味』(1997年)、死に向かう主人公のもつ仄暗い強制力が底冷えのするような魅力として迫ってくる、ざらついた映画だった。荒涼とした風景の中を主人公は亡霊のように、しかし妙に決然と彷徨っていく(伸びた影を重機が蹂躙する印象的なカットがある)。ただ阿部和重が言うように物語は(プロットと言う意味でも)曲がりくねっていて、目的に対して無限後退を繰り返しているように見える。単にどこにも辿り着かないのではなく、あてどない・間延びしたやり取りの中で果てしなく遠ざかっていく、というような
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 11/04/2026
『爆弾』(2025年)かなり良かった。フィンチャー『セブン』のジョン・ドゥを思わせる「世界精神型の悪役」(伊藤計劃)を軸としたポリティカル・サスペンスなのだが、ここで「悪」は二重化されている。一方にはすべてを計画した「世界精神」の体現者がいて、もう一方にはそれを模倣する正体不明の道化がいる。これを今日の、拡大自殺的なものも含めた広義のテロリズムが置かれている状況──ただちに生臭い社会的・思想的文脈を仮託され、その革命的なニュアンスは閉ざされた自意識の言葉によって抑圧されてしまう──の表現と見ることは可能だろうが、そうした出来合いの解釈以上に不気味なものがこの映画の画面には現れていたようにも思う
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 11/04/2026
『レオン 完全版』(1994年)今更ながら観た。冒頭から極端なクロース・アップが立て続き、映画全体を通してロングショットは抑制される。そのことは本作をきわめて私秘的に、仄暗い欲望の箱庭にしていると思う。妻を持たず(というか、失い)、子を持たないレオンは、その技能と愛を少女に吹き込むことで、自らの遺伝子を継ごうと試みているように見える。ここでは復讐や自らを閉じ込めるシステムからの解放は二義的なものになっていて(実際、そこに物語的な解決は与えられない)、きわめてプリミティヴな継承の欲望だけが仄暗く際立ってゆく、というような。こうして考えると、相田裕のガンスリはきわめて本質的な本作の批評だろう。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 01/04/2026
『天使の恍惚』(1972年)、正直に白状すれば若松孝二の左翼モチーフの映画はこれが初めてなのだが、かなり良かった。粗く図式化すれば、ここでは赤々と燃え立つ幻影に支えられたモノクロの革命(=爆弾の奪取)が、物語の大半において個から剥奪され、革命は体系化された組織と新聞のインクのシミになり、あとには密室のベッドに横たわる不能者としての革命家が残っている。イメージの世界において赤とは炎と血だが、モノクロの映画的画面において前者は白に、後者は黒に属し、決して交わることがない。そしてすべての個は黒々とした鮮血を垂れ流して死にゆくことになる。性はそのふたつを繋げるが、決して調停することがない。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 01/04/2026
小津安二郎の『麦秋』(1951)観た。まあ今とはかなり時間感覚が違うのだろうが、28歳という人生の盛りに翳りが差し始める時期=秋の始まりにあって子ども(=春)や十全な身体機能を失った老人(=冬)はきわめて不気味なものとして映らざるをえない……みたいな象徴的な読み解きを頭の中でこねくりまわしていた。決定的ななにかが過ぎ去りつつあることは、しかし画面が雄弁に語っている。幾何学的な画面構成、フレームインの仕掛けとして印象的に機能する扉、遠方の(過ぎ去った歴史としての)死を示唆するように壁へ掛けられた服。映画的技法の豊かさについての言及は既出も既出だと思うが、やっぱりすごい。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 30/03/2026
music.youtube.com/watch?v=Sk-o...
music.youtube.com
Dancing with my phone
YouTube video by HYBS - Topic
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 28/03/2026
music.youtube.com/watch?v=zIFS...
music.youtube.com
kettle
YouTube video by TIDAL CLUB - Topic
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 27/03/2026
笠井潔『バイバイ、エンジェル』(1979年)、古典的探偵小説のジャンルコードをを現象学的方法(と主張されるもの)で相対化するという形式上の革新を前提にしたうえで、その限界を指摘するところから始まるのが面白い。現象学的還元はたんなる思考上の操作ではなく生きられる仕方でなければならない、そしてその手がかりが簡単な生活(ラ・ヴィ・サンプル)あるいは生活(ヴィ)のなかにあるというのは、本作を規定するのがフランス語であることも相まってミシェル・アンリの生の現象学を思わせる。尤も、ここで「魔」と呼ばれているもの、諸個人をかくあらしめる必然性は果てしなく暗く、血塗られていて、惨苦に満ち溢れている
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 19/03/2026
『パリに咲くエトワール」(2026年)、きわめて堅実で誠実なアニメだと感じる。飛翔=超越の芸術としてのバレエは、そのまま妖精=鳥=(西洋的)想像力を追う日本アニメの想像力と重ね合わされる。本作のガールミーツガールはバレエを志す千鶴と画家を志すフジコに分極化されているように見えるが、テーマ批評的な語り口を行えば、フジコは画家(=静的なイメージ)の探求者というよりはむしろアニメ(=動的なイメージの連続)にその才能の核があり(その絵はつねに連続したデッサンとして提示された)その意味においてこの映画全体をある特別な位置からまなざす観測者にほかならない。彼女は超越する身体をそのままに描く。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 18/03/2026
光に自意識が宿っている。何の話かといえば『花緑青が明ける日に』の話なのだが、こうした仕方で絵を(というか光彩感覚を)信じることで成立しているアニメ映画を自分は見たことがなかった。ここには物語を平滑に語るための時間間隔も細やかな人間関係もなく、白熱した夏の終わりの光だけがある。それは時間の一切を規定しながら、感傷とも怒りともつかないかたちでただ鮮烈に漂っている。新海誠のように光景と実存が紐帯を結ぶのではなく、ただ光景(と状況)だけがあるような映画的時間。勿論撤退戦としてのテロリズム、みたいな物語の状況にも触れたいのだが、この異様な画面と間隔に触れずして何かを語ることはできないという気がする。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/03/2026
渡邉大輔『イメージの進行形』(人文書院、2012年)、重要なことを言っていると感じる。これをわれわれは「ゼロ年代批評」の遺産としてではなく、来るべき(だった)「テン年代批評」の開始点として読み直すべきなのだと思う。IT革命以後というよりはソーシャル・メディア以後の洪水のような映像群(=イメージの例外状態)を、ファウンド・フッテージ的断片の結節点という仕方で「作品」として捉え直し(「映像圏」というタームで把捉される)、さらにそこからフィルム・ノワールをはじめとする映画史上の転換を読み替えながら、最後にはそれがありうべき抵抗のモデルへと変幻していく。今読むとTwitterへの言明は予言的でもある
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 17/03/2026
樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』(光文社新書、2007年)、タイトルに惹かれて読んだが、掲げられている主題を徹底して掘り下げるというよりは、ラカン派社会学を軸に後期近代以降の主体論とかそこで前提される社会観(社会学の領域)・人間観(精神分析の領域)を整理するという内容でかなり参考になる。やや教育的で共同体(保守)主義に読めすぎるところはある気がするが、価値相対主義や流動化の中でそれでもなお残り続けざるを得ない確固たるものの領域、生活的身体の(=社会学的な意味での存在論的な)領域について考えた同書の論理構成は、その時代性に反して依然として有効なのではないか、と素朴に思う
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 09/03/2026
待川匙『光のそこで白くねむる』(2024年)、平穏な感想を激しく引き裂くような懐疑と暴力、死の影が凝る凄まじい小説でめちゃくちゃよかった。死者の語り(を偽装する多重化された自分の声?)によって、記憶がたえず訂正されていく。そこでは被害/加害の別が溶解して、自らによる暴力の行使が生々しい迫力を放っているのだが、それはその存在感を保ったまま、同時に、いかなる記憶とも現実とも紐帯を結ばず浮遊している。この凄烈な現実認識のなかである家族の決定的な破綻が明らかになり、罪の所在が露わになっていく構成は見事だが、それもまたやはり記憶や現実とかかわりあうものではなく、すべては宙吊りにされている。その凄まじさ。
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 09/03/2026
『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)ようやく見たが、全盛期ガイナックスのほとんど狂気的なディティールの描き込みに圧倒されたのはもちろんのこと、きわめてアイロニカルなストーリーテリングで予想外に良かった。有用性がなく、税金や予算を食い潰すだけのロケット開発(に人生を賭ける男たち)、という基本的な設定は、素朴に(それこそ岡田斗司夫的に)〈考察〉すればアニメ製作の比喩といえるだろうが、その開発自体が産業界の利権によって下支えされ、戦時下のプロパガンダに利用され、最後には国際政治上の駆け引きの駒にされる。最終局面のカタルシス(ロケットの発射)はそうした権力の網目への美学的な抵抗としてあるだろう
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 09/03/2026
『宇宙よりも遠い場所』(2018)の基本的な下地になってる無目的な繋がり=日常系的コミュニティの息苦しさを合目的的コミュニティで相対化する、しかしそのコミュニティもまたある面では無目的的(自己目的的)に機能する、というのは、入り組んでいるようでいて、テン年代の文化状況に対してきわめてアクチュアルなのではないか、と今更ながら思う。彼方はない、が彼方に至らねばならない、というワナビ的リアリズムにいかに向き合うべきか、ということ。それはエピソードのレベルでは労働と日常の重ね合いによって、プロットのレベルでは具体的な「約束の場所」(新海誠)を立て、キャラたちを「正しく帰る=変える」ことで果たされている
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 04/03/2026
鳥山まこと『時の家』(2025)、今おそらく著者と近い場所に住んでいる(明石市)ため読んだ。数世代にわたって使われてきた家-柱が埋蔵する、それぞれに断絶した記憶を、最も「若い」語り手が想像的に書き取っていく、みたいな内容で(複数の視点や語りが入り乱れていく)、かなり素朴な語りのなかに震災の記憶や決定的なすれ違いが、つまり複数の個人史と列島のリアリズムが浮上してくる。ただ本作の肝は、そうした語りの複数性の提示を可能にしていた家-柱が粉々に破壊されるクライマックスだろう。もちろん、それが空き家であることを考えるならその破壊もまたきわめて社会的な事柄なのだが、執拗に描写される破壊のディティールは→
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城輪アズサ @wheelfort.bsky.social · 04/03/2026
ヨルシカ『二人称』本当に素晴らしい。星野源『POP VIRUS』(2018)とか宇多田ヒカル『BADモード』(2022)みたいな、生活と並走する音楽の系列に属するような多彩で清浄な音像で始まりながら、それが時折ある種の不穏さで引き裂かれる。それはたぶん、本作のモチーフである、かつて生活の一部だった(おそらくメールがわりに使われていたであろう)手紙が、今や情報社会の速度を撹乱するような日常の外部に変じてしまったことと密接にかかわっているだろう。手紙は言葉を、生活を撹乱する。ただ、それは必ずどこか・だれかへと向けて放たれるがゆえに決定的に破壊的ではありえない。引き裂きは目立たない仕方で行われている
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