私がもつシェイクスピア悲劇の主人公の印象というのは「最終的に語ることが可能なものを失い、押し黙り、もしくは妄言を喚き、死ぬ前に既に死んでいる」というもので、これを政治的身体を剥奪されて「剥き出しの生」のみを残された「リチャード2世」に読み取ってカントローヴィチは『王の二つの身体』を書いたわけですが、それを引用しながらアガンベンが『ホモ・サケル』で書いたように、近代的主体というのは要するに余計な装いをすべて剥ぎ取ればこの「剥き出しの生」に還元されてしまうということではないか、その嚆矢としてシェイクスピアの悲劇の主人公はあるのではないかということを考えます