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哲学・文学・宗教bot

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ぼくのかんがえたさいきょうのbot ニーチェ(369),ウィトゲンシュタイン(302),三島由紀夫(268),シュペングラー(200),ゲーテ(173),ドストエフスキー(113),カフカ(101),聖書(98),カント(95),太宰治(59),オスカー・ワイルド(57),ショーペンハウアー(39),その他(365) 2時間毎に投稿します 4.5ヶ月くらいで1周します

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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 28m
誰ひとりとして、"どれほど"彼らが待ちのぞんでいるのかを推測する者はない……最後には、最後には彼らは、彼らの第一の処世智を習得する──もはや待ちのぞむべきでは"ない"ということを。しかも、ついでただちに彼らの第二の処世智をも習得する、すなわち、愛想よくなり、謙譲となり、 今後は何びとにも耐え、何ものにも耐えるということを──要するに、彼らがこれまですでに耐えてきたよりも、なおいささか"多く耐える"ということを。 (ニーチェ『権力への意志』971)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 28m
運命そのものである人間、おのれを担うことによって運命を担う人間が、重荷の"英雄的"負担者の全種族である。おお、いかに彼らはいちどはおのれ自身から解放されて休息したいとねがっていることか! いかに彼らは、おのれを圧する負担から少なくとも数時間まぬがれるために、 それを引きうけてくれる強い心臓と首筋の持ち主を飢えもとめていることか! だが、いかに彼らのこの願いの徒労であることか! ……彼らは待ちのぞむ。彼らは通りすぎゆくすべてのものに眼をとめる。だが、誰ひとりとして、彼らの苦悩と激情の千分の一をすらたずさえて彼らを迎えにくる者はない。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 2h
しかしそのほかの者たち、並みの人間であるわたしたち、凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。「人生は歯医者の椅子に坐っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」これは、こう言い替えられるだろう。「強制収容所ではたいていの人が、 今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。夥しい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいはごく少数の人々のように内面的な勝利をかちえたか、ということに。 (フランクル『夜と霧』)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 4h
誰かが「私には或る種の類似性がみえるのだがそれを描写できないだけなのだ」、と言うならば、「まさにそのことが君の経験を特徴付けているのだ」、と言おう。 君が二つの顔を見て、「似ている。だがどこが似ているのかがわからない」、と言うとする。そしてしばらくして、 「ああわかった、眼が同じ形をしているんだ」、と言ったとする。その場合私はこう言いたい、「その類似性についての君の今の経験は、似ているのはわかっているがどこが似ているのかがわからなかった時の君の経験とは異なっている」と。 (ウィトゲンシュタイン 茶色本)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 6h
苦痛の明晰さには、何か魂に有益なものがある。どんな思想も、またどんな感覚も、烈しい苦痛ほどの明断さに達することはできない。よかれあしかれ、それは世界を直視させる。 あとになって思うと、節子はこれほどの苦痛に耐える力を、徐々に育てていたわけであるが、こんな苦痛により、 又それに耐えることにより、節子は自分の久しい悩みの凡庸な性格を払拭して、非凡な女になったのだった。おそろしい苦痛にさいなまれながら、声一つ立てなかった。そこで女医は、用意した吸入麻酔の使用も控えてしまった。 (三島由紀夫『美徳のよろめき』第18節)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 8h
だがトルコ人の言うあの宿命への忍従もやはり一つの幻想なのだ。そしてこれらの幻想はまたすべて宿命のなかに包摂されているのである。 (ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第2部61)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 8h
トルコ人の宿命論は、人間と宿命を二つの別々のものとして相互に対立させるという根本的な誤りを含んでいる。その言うところによれば、人間は、宿命に対してその企図を挫折せしめるべく抵抗することができる、しかし結局はいつも宿命が勝利を手中にする、それ故、 諦めることあるいは気ままに生きることが最も賢明である、と。しかしほんとうは、いかなる人間もそれ自身一個の宿命なのである。たとえ人間が上述のやり方で宿命に抵抗できるのだと思っても、まさにこのこと自体のなかにやはり宿命が成就されているのである。宿命との戦いは一つの幻想である。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 10h
懐中電灯の光りを受けて強くきらめく。そのときは、材料と共に主題を発見したのである。 (三島由紀夫『わが創作方法』2)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 10h
私が一つの長篇小説を書くときの創作方法は、大略次のようである。 第一に主題を発見すること。 小説が「めずらしい材料」を料理して出来上ると思っている人は世間にまだずいぶん多く、中には或る題材を提供してくれて、いつまでたっても私がそれを小説化しないのに腹を立てている人もいる。 材料はどこにもころがっているのである。ただ、或る時点における私の内的な欲求に、ぴったり合う材料というものはなかなかみつからない。私たち小説家は、懐中電灯を手にして暗闇の道を探し歩いている人のようなものだ。ある時、路上のビール瓶のかけらが、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 12h
すべてこれは、最後的に終結した文化に対し、田舎に対して、全然新しい、末期的な、未来のない、しかも不可避的な、人間存在の形式を表わすものである。 (シュペングラー『西洋の没落』緒論12)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 12h
世界都市に属するものは民族ではなく、大衆である。あらゆる伝承されたものに対する無理解。文化(貴族、教会、特権、王朝、芸術においては伝統、科学においては認識可能性の限界)の克服。農民の利口さに勝る鋭いまた冷たい理知。 性的および社会的なものに関して、ソクラテスとルソーとよりもっと以前に立ち返って、原始人的本能と状態とに結合する全然新しい意味における自然主義。賃金争議とスポーツ競技場との形をとって現代に再現している「パンとサーカス」(Panemet circenses)。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14h
ちなみに、こういう堂々めぐりは、この世ならざるものへの望みを満足させてくれる。というのも、「人間の知性の限界」を見ているのだと思うことによって、当然、限界のむこうまで見えているのだと思うからである。 (ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1931.8.24)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14h
「哲学って、ぜんぜん進歩しないんですね」とか、「哲学って、その昔、ギリシャ人が頭を悩ませていたのとおなじ問題で、いまも頭を悩ませているんでしょう」とか。何度も何度も聞かされてきたセリフである。ところで、そういうセリフを口にする人は、なぜそうなのか、理由がわかっていないのだ。 その理由とは、われわれの言語があいかわらずおなじでありつづけているからであり、われわれの言語が何度も何度もわれわれをおなじ問題へと誘惑するからである。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 16h
そこで断絶してしまうのがほんとうの体験かということで体験の質を分ける。体験のなかに核とそうでないものがくっついている。核は断絶で、外側のものが普遍化できる。外側のものだけが普遍化する。普遍化したものは体験とは別ものなんです。 (三島由紀夫「対談・人間と文学」) 青年がぼくを好きになるなどということは青年にとって第一歩の誤りにきまっている。自分が誤ったら、てめえの責任じゃないか。だからこっちの知ったことじゃない。いくらでも身を誤ったらいいと思う。 (三島由紀夫「対談・人間と文学」)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 16h
文学というのは、ある体験をすると、これは断絶感じゃなくて普遍性にもっていけるものだと考えちゃって、言葉をもってくる。自分の体験のなかから言うにいわれないものはやめよう、だけどとにかく普遍化されるものをもってきて作品を組み立てよう。こうすると、その普遍化されたものが 人間の心にしみこむ。何も体験を同じくしない者にまで全部しみしむ。そうすると青年に影響する。これがいい文学ということでしょう。そうすると、そこで体験から生じたもので言葉を通じて普遍化されたものがほんとうであるか、あるいは絶対に言葉を通じられなくて
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 18h
現象は観察者から切り離されていない。むしろ観察者の個性に組み込まれ、巻き込まれているのである。 ……それゆえに、わたしたちが観察にさいしてはできるだけ対象を意識し、対象を考えるにさいしてはできるだけわたしたち自身を意識していることがいちばんよいのだ。 見解が世界から消えれば、しばしば対象そのものもそれとともに失われる。より高い意味では、見解がすなわち対象だと言うことができるからである。 (ゲーテ『箴言と省察』認識と学問)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 18h
算術における理論は、もし数詞や数字から切り離され、さらにすべての使用や実生活から切り離され、はたまた数え上げられる個別的な事物からも切り離されるなら、いかなるものをも対象にしていないと想定していい。ここから見てとれるように、数に関する学問はことごとく実生活に従属しているのであり、 たんなる思弁の問題とみなされるときには、まことに虚しく不毛なものになってしまう。 (バークリー『人知原理論』120) あらゆる人間の経験から切り離したところに、数学的厳密性という絶対的な概念が不動の前提として存在するとは、とても考えられない。 (フォン・ノイマン)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 20h
伝統は、誰もが受容できるものではない。気に入ったからといって、たぐりよせることのできる糸ではないのだ。自分の祖先を選択できないように、伝統も選択するのはむずかしい。 伝統をもっていなくて、伝統をもちたいと思う者は、果たせぬ恋をしている者のようだ。 幸福な恋をしている者も、不幸な恋をしている者も、それぞれそれなりの情熱をもっている。 しかし、幸福な恋をしていて良い人間であるより、不幸な恋をしていて良い人間であるほうが、むずかしい。 (ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1948.11.29)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 22h
一等犯しやすいあやまちは、行為を批評するのに趣味を以てすることである。何故かといふと、小説が技術の集積として見られるときに、その技術の内的体験に触れることのできない批評家には、趣味の尺度しかなくなつてしまふからである。 芸術上の技術とは純粋に美的な問題である。美は芸術家にとつては倫理的なものであり、鑑賞家にとつては趣味的なものであり、批評家にとつては何とも言ひやうのないものである。 (三島由紀夫『批評家に小説がわかるか』)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 22h
大体私は批評といふ一ジャンルの存在理由を疑つてゐる。直感的鑑賞と自己批評(乃至は自伝乃至は告白)との中間地帯の存在理由を疑つてゐる。文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつてしまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、 批評は創造に無限に近づくからである。多くの批評家は、言葉の記録的機能を以て表現的機能を批評するといふ矛盾を平気で犯してゐるのである。もしひとたびこの矛盾に気づけば、批評家はおのれを語るために作品を犠牲にするか、おのれを捨てて作品の鑑賞に努力するか、いづれかの道しかない。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14/10/2026
自力でここまで来たのではなく、いたいけな子供の時分、既に追いつめられ、そこに雁字搦めにされていたような気もする。悪運の意識がようやく明けそめてきただけだ。悪運そのものは出来あがっていた。それを見るには、預言者の眼どころか、一瞥の透徹した眼差しで十分だった。 (カフカ 日記 1922.1.24)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14/10/2026
理由のある悲しみ、この理由にもたれかかっている。たえず危険。出口なし。初めての時はいかに容易だったことだろう、そしていまや、いかに難渋を極めているか。暴君がなんと絶望的に僕をみつめていることだろう。「お前はおれをどこへ連れて行くのだ?」あらゆる手立てを尽してもなお平静は得られず、 午後には、朝の希望は葬り去られている。こんな生活と折合いをつけていくことは不可能だ。そんなことができた人間はいまだかつて存在しなかったはずだ。他の人ならこの限界まで来たら──ここまで来たらしいということが、すでに惨憺たることなのだ──背を返してしまうだろう。僕にはそれができない。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14/10/2026
著者に対する読者の二重の不作法は、著者の第二作を第一作より上出来だといって賞讃し(あるいはその逆をし)、しかもその際、著者が自分に感謝することを要求するというやり方にある。 (ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部130)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14/10/2026
世の中には、当然立つべき立場に立っていることのできる人間というものは、ほんの僅かしかいないもので、どちらかというと、むしろ猫も杓子も自分にぴったりしたものだけを讃めるし、そういうものだけを作ってもらいたいと思っているものだ。そして、一流最高の人たちでさえそうだったのだから、 いわんや大衆の意見などというしろものがどんなものだったか、われわれが一体どんなにいつも孤独だったか、君だって想像がつくだろう。 (エッカーマン『ゲーテとの対話』1829.3.23) 称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。 (ニーチェ『善悪の彼岸』170)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14/10/2026
人生の問題の解決策を見つけたと思い、「さあこれで楽になったぞ」と呟きたくなったとしよう。そのとき、それが間違いであると証明するには、「解決策」が見つかっていなかった時代があったことを考えればいい。その時代にだって生きることができたはずであり、その時代のことを考えれば、発見した 解決策など偶然にすぎないと思えるのだ。論理学の場合も事情は同じである。「論理学の(哲学の)問題を解決」したとしても、これだけは肝に銘じておくべきだろう。その問題はかつて未解決だった(が、そのときだって生きることも考えることもできたはずだ) (ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1929.6.29)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14/10/2026
心ならずも歴史に伺いをたてるような者は、しだいに臆病から俳優となり、なにか一役演ずることになるのだが、たいがいはたくさんの役を引き受け、したがってどれもこれも拙劣浅薄に演ずることになる。 (ニーチェ『生に対する歴史の利害について』5)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14/10/2026
歴史というものはただ強き人格によってのみ堪えられるのであって、弱き人格など、歴史は完全に抹殺消去する、という私の命題も理解してもらいたいし、一考していただきたいのである。 このように言うわけは、感情や感覚が、過去を自分に即して測るにたるだけの強さを持たない場合には、いたずらに歴史によって混乱せしめられるという点にある。もはや自分を信ずることができず、ものを感じとる際に、「ここで自分はどういう感じ方をすべきものであろうか」と、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
すべて書物というものはどんな書物でも我々に新らしき真理を教えてくれるものではありません、我々に最も多く利益を与えてくれた書物とは我々の実験を最も多く確かめてくれた書でございます、 (内村鑑三『宗教座談』第三回 聖書の事)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
世に神ほど我々に近いものはございません、神に較べて見れば我々の妻子眷族は皆な遠い姻戚であります、神に教えられずして我々は外物何一つとして知る事が出来ないのみならず、我々自身をさえ自覚する事が出来ません、聖書にいかほど神があると書いてあろうが、 神が直接に我々の心に自顕し給うにあらざれば我々は神を知る事の出来ないものであります、我々は何も聖書の語に依て神を信じたのではございません、聖書が我々の実験する事を書き示しているから我々の信仰が確められたのであります、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
何もせずにすますということは不可能なのだし、そんな見せかけの自己保護が今日のお前をほとんど破滅させてしまったのだから。F、結婚、子供たち、責任などに関係のある骨惜しみだけに限らない。お前が居坐っている職業に関わりのある骨惜しみ、 お前がそこから動こうとしない悪い住いに関わりのある骨惜しみもだ。何もかもだ。要するに、もう止せ。人は自分を労ることもできなければ、先を見越して計算することもできはしないのだ。お前には、自分にとって何がより良いものかということが、皆目分かっていない。 (カフカ 日記 1916.8.27)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
たしかにお前はすべての過去を説明することができる。なにしろ予め説明してからでなければ、一度だって未来に賭けようとはしないのだからな。もっともそんなことは明らかに不可能だ。責任感情とか、何かその種の極めて尊敬できるようなものにしたところで、結局のところは役人根性、子供っぽさ、 父に打ち挫かれた意志なのだ。それを改善し、その改善に努めよ。それはお前の手の届くところにあるのだ。つまり、骨惜しみをするなということだ(とりわけ、曲りなりにもお前によって愛されているFの人間生活を犠牲にして、わが身を労ることはするな)。というのは、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
柏木が美に索めているものは、確実に慰藉ではなかった! 言わず語らずのうちに、私にはそれがわかった。彼は自分の唇が尺八の歌口に吹きこむ息の、しばらくの間、中空に成就する美のあとに、自分の内飜足と暗い認識が、前にもましてありありと新鮮に残ることのほうを愛していたのだ。 美の無益さ、美がわが体内をとおりすぎて跡形もないこと、それが絶対に何ものをも変えぬこと、……柏木の愛したのはそれだったのだ。美が私にとってもそのようなものであったとしたら、私の人生はどんなに身軽になっていたことだろう。 (三島由紀夫『金閣寺』第6章)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。 (マタイ福音書 6:16-18)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
『開かれた社会とその敵』を絶賛したラッセルは、ポパーよりさらに政治的な人間だった。哲学者は象牙の塔から街にでて、現代の問題を論ずるべきだとかれも考えていた。 (『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
ポパーからみて現実の問題は、わたしたちがどう支配されるか、社会がどう構成されるかである。これは帰納法や無限概念におとらず、哲学者がとりくむにふさわしい問題だろう。じっさい、それがかつてないほどさしせまった問題になっていたのはあきらかである。 ポパーがウィトゲンシュタインを嫌った理由のひとつはそこにある。現実世界の焦点課題、すくなくとも哲学者が役にたち、とくべつな貢献ができるはずのテーマに、ウィトゲンシュタインは関心をもたないようにみえた。そのことに、ポパーは軽蔑の念をいだいたのである。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。 (マタイ福音書 23:2-10)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために自分では指一本も貸そうとはしない。 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、また、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
民衆は建前上、つねに暴力や無秩序を憎むといふことになつてゐる。民衆の半数は女だからである。 (三島由紀夫『秩序の方が大切か──学生問題私見』)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
さて、世間の全体の傾向は、イデオロギーの終焉といふお題目だの、世界国家への道といふ空疎な世迷ひ言だのに飾られながら、「何よりも秩序が大切だ」といふ平均的世論の味方をするやうになつてゐる。「平和と安全のため」なら、「国益のため」なら、どんなお妾修業でもしよう、といふ保守党感覚と、 「平和と秩序のため」なら、どんなイデオロギーでも呑み込まうといふ民衆感覚とは、政治的には右と左に分れるやうだが、その実、よく似たメンタリティーに基礎を置いてゐる。大体身の安全しか考へない人間は、どつちへころぶか知れたものではない。 (三島由紀夫『秩序の方が大切か──学生問題私見』)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
フローベールとキェルケゴールはみずからの立場のいかなるものかを正確にわきまえていた。ひたむきな意志の人であった。それは計算であるどころか、行為であった。ところが、お前の場合は、計算の永久の連続だ。 (カフカ 日記 1916.8.27)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
さあ奮いたて。向上し、小役人根性から足を洗い、何になるかを計算するかわりに、現に自分がどんな人間かを見ることをはじめるのだ。いちばん手取り早い課題は絶対だ、曰く兵隊になること。ついでにフローベールやキェルケゴールやグリルパルツァーと似ているふりをするような、 愚にもつかない錯覚も捨ててしまえ。なんとも児戯に類している。計算のつながりの一環として、たしかに役に立つか、あるいはむしろあらゆる計算に役に立たないお手本なのである。もっとも一人ひとりをとって引き較べてみれば、このお手本たちは最初から役に立たない。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
あの善良なティートゲだって、もっと良い星のもとに生れていたならば、もっとましな思想を持っただろうね。」 (エッカーマン『ゲーテとの対話』1824.2.25)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
「不死の観念にかかずらわるのは」とゲーテはつづけた、「上流階級、ことに何もすることのない有閑マダムにうってつけだ。しかし、この世ですでにれっきとしたものになろうと思い、そのため、毎日毎日努力したり、戦ったり、活動したりしなければならない有能な人間は、来世のことは来世にまかせて、 この世で仕事をし、役に立とうとするものだ。その上、不死の思想などというものは、現世の幸福にかけては、最も不運であった人たちのためにあるのだよ。なんなら賭けてもいいが、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
おまえがある者の無恥に怒りを覚えるときには、直ちにおまえ自身に尋ねよ、「いったいこの宇宙に無恥な者どもが存在しないことができるか」と。できないことを求めぬことだ。彼もまた、この宇宙に存在せずには済まぬかの無恥なる者どもの一人であるから。 (マルクス・アウレリウス『自省録』9巻42) 外よりおまえの身にふりかかることが、おまえを正道から逸脱させるとでもいうのか。何か善きことを習得しその知識を増すべき閑暇をおまえ自身に生み出し、徒に世俗のなかに右往左往するのをやめよ。 (マルクス・アウレリウス『自省録』2巻7)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
おまえが何か自分の外にあるものゆえに苦しむ場合、おまえを悩ますのはその外なるものではなく、それについての判断である。 おまえの心の性向のなかにあるものがおまえを苦しめるなら、おまえの原則を匤すのを妨げる者がいったい誰であるというのか。同様にまた、 これこれの行為が健全とおまえに思われるのにそれを実行せずにいるといって悩むなら、なぜ悩むよりむしろ実行しないのか。 「そうは言っても、自分の力に余るものが阻んでいるのです」──それなら悩まぬことだ。実行されぬ原因はおまえの側にないのだから。 (マルクス・アウレリウス『自省録』8巻47)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。 (マルコ福音書 7:3-8)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事がたくさんあった。 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 13/10/2026
人は弱さ、しゃれた言いかたをすれば、肩の木の葉の跡とおぼしき箇所に、射込んだふうの矢を真実と呼んでほめそやす。けれども、そんな判り切った弱さに射込むよりは、それを知っていながら、わざとその箇所をはずして射ってやって、相手に、知っているなと感づかせ、 しかも自分はあくまでも、知らずにしくじったと呟いて、ほんとうに知らなかったような気になったりするのもまた面白くないか。虚栄の市の誇りもここにあるのだ。 (太宰治『もの思う葦』)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 12/10/2026
「"みずからの"智恵への愛」ということだが──[幾何学の体系を採用することで]〈ちちんぷいぷい〉と数学的な形式の呪文を唱えたのだが、こうすることで[自分の体系を]攻撃しようとする人々の勇気をあらかじめ殺いでおいたのも、こうした策略の一つである。 (ニーチェ『善悪の彼岸』5)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 12/10/2026
老カントは、あのぎこちなく、つつましそうな偽善家ぶりによってわたしたちを弁証法の間道へと誘うのであり、この間道はわたしたちを「定言命法」へと導く(正しくは誘惑する)のだが──こうした芝居はわたしたちのような分け知りの人間を苦笑させるものだ。 わたしたちは年老いた道徳学者や道徳の説教師たちの巧みな策略をあばくことには、ちょっとした喜びをみいださずにはいられないのだ。スピノザは自分の哲学に──それは[この哲学(フィロソフィア)、すなわち知(ソフォス)への愛(フィロス)という]語の正しき意味で、結局は[神への知的な愛ではなく]
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