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哲学・文学・宗教bot

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ぼくのかんがえたさいきょうのbot ニーチェ(369),ウィトゲンシュタイン(302),三島由紀夫(268),シュペングラー(200),ゲーテ(173),ドストエフスキー(113),カフカ(101),聖書(98),カント(95),太宰治(59),オスカー・ワイルド(57),ショーペンハウアー(39),その他(365) 2時間毎に投稿します 4.5ヶ月くらいで1周します

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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 55m
「爪」のびているだろう… こんなにのびてる 自分の「爪」が のびるのを 止められる人間がいるだろうか? いない… 誰も「爪」をのびるのを 止める事ができないように… 持って生まれた「性」というものは 誰もおさえる事が できない…………… (荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第4部) だが わたしには勝ち負けは問題ではない… わたしは『生きのびる』…… 平和に『生きのび』てみせる わたしは人を殺さずにはいられないという『サガ』を背負ってはいるが…………… 『幸福に生きてみせるぞ!』 (荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第4部)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 2h
"防衛手段"。──愚鈍との闘いでは、もっとも正当なもっとも温和な人々でも、しまいには獣的になる。彼らはそうすることでおそらく防衛の正道にあるわけであろう、なぜなら愚鈍なひたいには、論拠として、法理上握りこぶしがふさわしいからである。しかしすでに述べたように、彼らの性格が 温和な正当なものであるために、彼らは正当防衛のこうした手段によって、相手に苦痛を与える以上に自分のほうが苦しむ。 (ニーチェ『人間的、あまりに人間的1』362) どんな場合にも口論なんぞ気にするな。賢い人でも無知なものと争うと、無知に陥ってしまう。 (ゲーテ『西東詩編』ことわざの書)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 4h
宗教的な、あるいは芸術的な現象が、社会的なまたは経済的な現象よりも根源的だというわけではない。その反対でもない。ここで、どんな種類の利害でもいい、あらゆる個人的な利害を離れて、無条件的に自由な視野を獲得した者から見れば、従属もなく、優越もなく、原因結果の関係もなく、 価値と重要性との区別もない。個々の事実に優劣の差をつけるものは──、善悪、高低、有用と理想とを超越して──その形式言語の純粋さと力との多い少ないであり、その象徴的意義の強さの程度である。 (シュペングラー『西洋の没落』緒論11)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 6h
あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません」。そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。 マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 8h
人間の行為についての人間の判断は、真実でもあれば無効でもある、つまりまず真実、やがて無効というわけだ。 右手のドアを通って隣人たちが、家族会議の開かれている部屋に押し入ってきて、最後の発言者の最後のことばを耳にし、それを飲み込んだまま左のドアから世間に飛び出すと、彼らの判断を 触れてまわる。真実なのは、そのことばについての判断であり、無効なのは、その判断自体である。最終的に真実な判断を下したいのだったら、彼らはその部屋に永久にとどまらねばならなかっただろうし、そうすれば家族会議の一部となって、そのためにむろんまた、判断を下すことはできなかったであろう。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 10h
われわれは、自分たちが充たさなければならない一定の制約条件のもとでだけ自由だということだ。市民もまた、彼が生れあわせた身分によって神から定められた分を守っているかぎり、貴族と同じように自由だ。貴族は王侯と同じように自由だ。というのも、貴族は宮廷でほんの少し礼式を守るだけで、 自分も王侯も同等だと感じてもさしつかえないからだよ。われわれは自分の上にあるものをすべて認めようとしないことで、自由になれるのではなく、自分の上にあるものに敬意を払うことでこそ、自由になるのだ。なぜなら、われわれは、自分の上にあるものを尊敬することで、自分をそこまで高め、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 12h
「我々は無教養である、それだけでない、生きること、正しく単純に見ることや聞くこと、もっとも手近な自然のものをうまくつかまえることに対してすら、駄目になってしまっている。真実な生活を自分たちのうちに持つという確信さえないために、我々には今日まで文化というものの基礎さえできていない。 どこを見ても支離滅裂で、全体としては内部と外部に半ば機械的に分割されているではないか。竜の歯のように概念をやたらに植えつけられ、概念の悪竜を生み出すだけではないか。そのうえ言葉の病気にかかっていて、まだ言葉の印形を押されていないあらゆる独自な感情には自信が持てない始末ではないか。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 14h
昔の人は己惚れの効果、己惚れの利用法についてよく知つてゐました。「葉隠」といふのは有名な武士道を説いた固苦しい本ですが 「武勇と云ふ事は、我は日本一と大高慢にてなければならず」 とか、 「武士たる者は、武勇に大高慢をなし、死狂ひの覚悟が肝要なり」 とか述べてゐます。 謙遜といふことは みのりのない果実である場合が多く、又世間で謙遜な人とほめられてゐるのは大てい偽善者です。ある大学教授は文章の中で、自分のことを、「私ごとき一介の老書生」とか、「哀れな一語学教師」とか書く趣味がありますが、誰がこれを本当の謙遜だと思ふでせうか。「みのるほど頭の垂るる稲穂かな」
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 16h
ところが、わしには、現今の教師たちは、あまりにも発生的にまた歴史的に、生徒たちに接するように思われるので、だから結局はせいぜいのところまたも小型のサンスクリット学者か、語源研究を仕込まれた性急者か、原典判読の道楽者かが、そこから出て来るだけで、しかし彼らのうちの誰一人として、 わしたち老人のように、自分の愉しみのために、自分のプラトン、自分のタキトゥスを読むことはできないのだ。こういうわけで、ギムナジウムは、今日でもなお学識の養成所には違いなかろうが、しかしそれは、いわば最も高貴な目標を目指す教養の
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 18h
バッハの時代とは、非常に一般的な言い方をすると、理性の時代と呼べる時代でした。いや、理性の時代のひとつと言うべきかもしれません。同様の時代はそれまでにも何度もありましたから──。これは、基本的には、人間が、恐怖や予定調和説と闘った時代でした。 科学の不思議や人間の主導権を大胆に肯定した闘いだったのです。傲慢の時代、つまり、神々に対する不遜の時代という面もときに現われました。しかし、最も詩的な面をみるならば、科学の有用性と人間の誇らしき素質が、信仰の、魔術的、神秘的で畏怖すべき典礼とまだ共存できる時代でもあったのです。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 20h
ろくろく才能もないのに、音楽に打ちこんでも、その人はむろん巨匠にはなれる筈がないが、巨匠の作ったものを知り、評価するようにはなるだろうね。私もさんざん努力をしてみたものの、画家にはなれなかった。けれども、あらゆる美術の部門を探究してみたおかげで、 一本一本の線を説明できるようになり、ほめるべき点と不満な点を区別できるようになった。これは、けっして小さな収穫とはいえない。じっさい、誤った傾向といっても、何ら得るところがないなどということはめったにないことだ。 (エッカーマン『ゲーテとの対話』1829.4.12)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 22h
どうせ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、それは世間の人が「嘘つき」と呼んで卑しめている性格に似ていながら、しかし、自分は自分に利益をもたらそうとしてその飾りつけを行った事はほとんど無く、 ただ雰囲気の興覚めた一変が、窒息するくらいにおそろしくて、後で自分に不利益になるという事がわかっていても、れいの自分の「必死の奉仕」それはたといゆがめられ微弱で、馬鹿らしいものであろうと、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 03/10/2026
「古代人の研究のことがよく話題になるね。しかしこれもつまるところは現実世界というものを直視して、それを表現するように努めよ、といっているに過ぎないさ。なぜなら古代人だって生きているときはそうしたのだからな。」 (エッカーマン『ゲーテとの対話』1826.1.29)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
誰も自分自身について間違いなく「俺は糞みたいな奴だ」とは言えない。私がそう言うとしたらある意味それは正しいかもしれないが、自分ではその正しさに浸ることができない。そんなことができるなら、私は狂人になるか、自分を変えるしかないだろう。 (ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1937.12.8-9) 自分自身について、自分自身よりも真実味のあることは何も書けない。それが、自分について書くことと、外部の対象について書くこととの違いである。君は、君の身長から眺めて君自身について書く。竹馬やハシゴの上に立つのではなく、裸足で立つのだ。 (ウィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1937.12.12)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
だれかをほめるということは、自分をその人と対等の立場に置くということだ。 (ゲーテ『箴言と省察』経験と人生) 神は、わたしたちが高きに立てばすべてであり、低きに立てば、わたしたちのみじめさの一つの補足である。 (ゲーテ『箴言と省察』宗教とキリスト教) 世紀は進む。しかし個々人はそれでもやはりはじめからやりなおすしかない。 (ゲーテ『箴言と省察』経験と人生) 真の弟子は既知のものから未知のものを展開する術を学び、かくて師に近づく。 (ゲーテ『箴言と省察』経験と人生)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
評論雑誌は、現代の無責任な三文文士の書きなぐりや、なおもますます大量に出回る無用の悪書に対して清廉潔白、公正かつ厳正な態度で判断を下してその防波堤になるべきだ。書く力も資格もない者が書いた冗文や、からっぽ財布を満たそうとからっぽ脳みそがひねり出した駄作は、書籍全体の九割にのぼる。 評論雑誌は当然、それらを容赦なくこらしめ、書きたい気持ちにまかせてペンを走らせる詐欺まがいの売文行為を阻止しなければならない。それなのに著者や出版業者とのさもしい馴れ合いから、それらを奨励し、読者から時間と金を奪っている。 たいてい書き手は薄給・薄謝で、お金が要るので書きまくる
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
哲学者の思想を研究するかわりに、彼の伝記を知ろうと思っている人は、絵画に眼をそそぐかわりに、その枠に気をとられて、その彫り方の趣味や金箔の値段などをつらつら考えている人のようなものである。 ここまでは、まだよい。 ところが、さらにもう一組、別な連中がいる。彼らの関心もやはり、 素材的個人的な事柄にそそがれているのであるが、彼らは更に一歩をふみ越し、しかもどうにも品のないところまで行きすぎる。 偉大な精神が人類に比類のない贈り物をしたという事実に臨んで、これらの小僧どもは、この天才の道徳的品性を自分たちの審廷にひきだし、そこで彼の行状に何か落ち度がないか
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、 あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。 (申命記 6:4-9)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
ヤケ酒というのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。(女に酒飲みの少いのは、この理由からである) 私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。しかし、だんだん考えてみると、相手の身勝手に気がつき、ただこっちばかりが悪いのではないのが確信せられて来るのだが、いちど言い負けたくせに、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
30になろうと40になろうと奴らは言い続ける…… 自分の人生の本番はまだ先なんだと……! 「本当のオレ」を使っていないから今はこの程度なのだと…… そう飽きず言い続け… 結局は… 老い……死ぬっ……! その間際いやでも気が付くだろう… 今まで生きてきたすべてが 丸ごと「本物」だったことを…! 人は…… 仮になど生きていないし 仮に死ぬこともできぬ 当然だ……… 問題は……… その当然に気が付いているかどうか………… 真に覚醒しているかどうかだっ………! (福本伸行『賭博黙示録カイジ』)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
演奏会で、弾くつもりでいたリピート、しかも作品の安定感を出すのに不可欠なリピートを、軽率にも、弾かずに先に進んでしまったとします。曲の輪郭は、新しい、必ずしも歓迎できないものとなるでしょう。「そりゃそうさ」と演奏会の布教者たちは叫びました。 「でも、この公開のスペクタクルを、ひとつの出来事、事件に、文字どおり一生に一度だけの、つまり繰り返すことのない出来事に、実に人間らしい不完全性へのモニュメントに変えてくれるのは、まさにそうした偶然のおかげなんだよ。」
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
学者は模範となる人間ではない。彼らは誰よりも先に進むことも、誰よりも後に遅れることもない。彼らは善に与するか、悪に与するかを決める根拠をもつには、あまりに遠い場所に立っている。人々は学者を長いあいだ、哲学者、すなわち帝王のように文化を育成する者であり、独裁者であると間違えてきた。 それは学者に高すぎる名誉を与えることであり、学者の本質を見損なうことである。学者は〈道具〉にすぎない。一人の奴隷である。奴隷としては最高の種類のものであるのはたしかだとしても、みずからには何も、〈ほとんど何も〉、もっていないのである。 客観的な人間とは一つの〈道具〉である。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
クライストは彼の感動的なやり方で次のように書いている。「少し前に私はカントの哲学を知りました──私はあなたに今そこから一つの思想をお伝えします、これが私同様にあなたを深く、痛々しく揺り動かしはしないかと気遣わずに、お伝えしなくてはなりません。──私たちが真理と呼んでいるものが 真実に真理であるのか、それとも私たちにただそう見えるだけなのか、私たちはこれを決めることができません。後者ならば、私たちがここに集めた真理は死後にはもうありません。そして、私達に墓場のなかにまでつき随ってくる所有物を獲得しようとするすべての努力はむなしいものです。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
バッハの旋律がいつまでも古びることがないのは、特性というよりは、むしろそれのもろもろの特性の一つの結果である。それは、その発生の基となった自然と同じく、永遠に美しく永遠に若々しい。バッハが早期の作品にその時代の一般の趣味を取り入れたものはすべて、今や古びたものになっている。 彼が後期の作品におけるように、旋律を芸術の内面の源泉そのものから、流行の形式などは顧りみることなく展開したところでは、すべてが今なお、昨日誕生したばかりのように、すがすがしく新しい。同じ年代に作られたもので、そのようなことが言い得る作品は滅多に見出されない。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 02/10/2026
瞬時、こんなことを考える。これに甘んじよ、瞬間のうちに安らぎを得る(とにかく、昔はできた)すべを学べ(学べ、四十面下げた男よ)。そうだ、瞬間のうちに、怖ろしい瞬間のうちにさえ。いや、ちっとも怖ろしくはない。未来への慣れだけが、それを怖ろしいと思わせるのだ。 それから後をふり返ること、これもむろんだ。お前はいったい性の贈り物をどうしたというのだ? 失敗だった、と結局はいわれるだろう、それがすべてであるだろう。だが、簡単に成功することもできたかもしれない。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
内的な存在としては生であり、客観的な存在としては死あるいは虚無に他ならぬこと、かかる存在の二重性は、芸術作品をして無限に自然の美へ近づかせるのである。彼の確信によれば、芸術作品は自然同様に断じて「精神」を持っていてはならなかった。いわんや思想をや! 精神の不在によって精神を証明し、思想の不在によって思想を証明し、生の不在によって生を証明する。それこそは芸術作品の逆説的な使命である。ひいては美の使命であり性格である。 それでは創造の作用は、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
永遠に秘密となっている魂について、「正確な知識」を持とうと欲することは無意味である。しかしそれにもかかわらず、抽象的に考えようとする後期都市的な衝動は、「内部世界の物理学者」を強制して表象から成る仮象界を、いつも新しい表象で、概念を概念で説明させようとする。 そこで彼は拡げられなかったものを、拡げられたものと考え直し、ただ観相的に現われてくるものの原因として一つの体系を建て、その体系のなかで「魂」の構造をまざまざと見ると信ずるのである。しかしどんな文化においてもこれらの学者的な仕事の結果を伝えるために選ばれた語は、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
それは文化を主として作品として"もの"として鑑賞するやうな寛大な享受者の芸術至上主義である。そこにはもちろん、政治思想の趣味的な関与ははばまれてゐない。文化は、"もの"として、安全に管理され、「人類共有の文化財」となるべき方向へ平和的に推進された。 その成果が甚だ貧しかつたことは 前述のとほりであるが、文化主義は依然として自らに満足し、大衆社会化の進行に伴つて、その最大の表看板になつたのである。しかしこれはもともと、大正時代の教養主義に培はれたものの帰結であつた。日本文化は外国に対しては日本の免罪符になり、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
力学はその時代その時代の論理学の模写であるとともに、逆に論理学もそうである。心理学が説いている思考構造の像は、同じ時代の物理学が扱っている空間界の対象である。概念と事物、原因と結果、結論と過程は、観念的にいえば、完全に一致しているために、抽象的思想家はいつもいつも、思考「過程」を 直接に図形と表とで"空間的"に表示しようという誘惑──カントとアリストテレスの範疇表を考えればわかる──の虜となっていた。図形のないところには哲学はない――これは口に出してこそ言わないが、あらゆる職業的体系学者が「直観する者」に対して心ひそかに自己の優越を感じながら抱く偏見である。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
美──美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ! つまり杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなあ。美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。俺は無教育だけれど、 この事はずいぶん考え抜いたものだ。実に神秘は無限だなあ! この地球の上では、ずいぶん沢山の謎が人間を苦しめているよ。この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出て来るようなものだ。ああ美か! その上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
『昔の世の中なんて、みな頭がおかしかったんだよ』──この上品な人びとは、そう言ってまばたきする。 彼らは悧巧で、世間で起きることなら何でも知っている。だから彼らの嘲笑の種は尽きない。口げんかくらいはする。だがまもなく仲直りする──そうしないと胃に悪いから。 小さな昼の快楽、小さな夜の快楽をもっている。だが健康が第一だ。 『僕らは幸福を発明した』──最後の人間はそう言って、まばたきする──。 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』序説5) 「我々はすべて自分でできる。すべてをよりよきものに変えていける。やがて、幸せの極致に到達できるのだ」 (トルストイ『三人の息子』)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
学者や科学者がとる態度は、なんと奇妙なのだろう。──「これはまだわかりません。だが、わかるはずです。時間の問題にすぎません。そのうちわかるでしょう」。まるでそれが当たり前であるかのような発言ではないか。── (ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1941.6.16) 自然の世界には、我々が近づきうるものと近づきえないものがあるということだ。これを区別し、十分考慮し、それを尊重することだ。この二つのうちの一方がどこで終り、もう一つの方がどこで始まるかを知るのは、たしかにいつも困難なことではあるが、ともかく、そういう区別があることを知るだけでも、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
昔の偉大な人物についてあれこれ論じた本がたくさん出ている。一般読者はこうした本なら読むが、偉大な人物自身が書いた著作は読まない。新刊書ばかり読もうとする。それは「類は友を呼ぶ」と諺にもあるように、偉大なる人物の思想より、今日の浅薄な人間がくりだす底の浅い退屈なおしゃべりのほうが、 読者と似たもの同士で居心地がよいからだ。ところで私は、若き日にシュレーゲルのすばらしい警句に出会えた運命に感謝している。以来、それは私の導きの星となった。「古人の書いたものを熱心に読みなさい。まことの大家を。現代人が古人について論じたものは、たいしたことはない。」
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
宗教においては、各人が自分の行動の規則を自らのうちに求め、その責任を自ら担わなければならない。自分の過失の責任を教師や先人などの他の人々に転嫁することはできない。しかしそのような宗教にあっても普遍的な命令によっては、徳の高さや神聖さの実例によるほど大きな成果はえられない。それは こうした普遍的な命令が聖職者や哲学者から受け取ったものであるか、自分自身で考え出したものであるかを問わない。 ただしこのような歴史的実例は徳の自律を不要にするものではないし、この自律を模倣のメカニズムに変えることを求めるものでもない。模範とすべき宗教の開祖が示した成果が他の人々に
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
豹どもが神殿に押し入って、供物の入った甕を飲み干してしまう、これが何度となく繰り返される、おしまいにはその予測がつくようになって、これが儀式の一部となる。 (カフカ 自撰アフォリズム[20]) 語り出ずる新しき声のもはや絶えしとき、 汝ら古き言葉もて 掟を作りぬ。 生の"萎え硬ばりたる"ところ、そこに 掟 そびゆるなり。 (ニーチェ 詩集 ディオニュソス讃歌のための断片77)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
バッハの作品は、芸術の中の単に美しく快いもののように、ただ人を喜ばせ楽しませるだけではなく、否応なしにわれわれの心を奪い、われわれを一瞬驚かすだけではなく、われわれがそれを何度も聴き、詳しく知れば知るほど、その作用がますます強まり、その中に積み重ねられた驚くべき豊かな楽想が、 千度も吟味した後にも依然として、われわれに新らしいものが残されていて、それがわれわれの賞賛を、時にはわれわれの驚嘆を喚び起こす。ついには音楽のいろはを知っているだけのしろうとでさえ、それの好い演奏を聴かされ、偏見をもたずにそれに耳と心を開くならば、感嘆を禁じ得ないであろう。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 01/10/2026
大まかに言って、疑わしい怖るべき事物に対する偏愛は"強さ"の一症候であり、他方、小ぎれいな小いきなものを喜ぶ趣味は、弱い者の、繊弱な者のものである。悲劇での"快感"は"強い"時代や性格の目印であり、この快感の極致はおそらくは神的喜劇であろう。悲劇的残酷さのうちにありながらおのれ自身へと 然りと断言するのは、"英雄的"精神である。この精神は、苦悩をも"快"として感受するほど十分冷酷であるから。 これに反して、弱者どもが芸術を享受しようとすれば、彼らは、"彼ら自身の価値感情"を悲劇のうちに置き入れて解釈するであろう。たとえば、「道徳的世界秩序の凱歌」とか、「生存の無価値」
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
西洋のあらゆる人間の生涯に関係を与えるものを、天意と名づけようと、摂理と名づけようと、内的発展と名づけようと、思想はそれにはまったく近づくことができない。 「自由意志」とは内的確信である。しかし人の欲し、またはおこなうところのことは、──実際に、すべての決心の結果として、それから急激に、不意に、予見されないまま、生じまた起こることは、──より深い必然にしたがっているのであり、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
葡萄の樹よ。どうしてわたしを讃える。わたしはお前を切ったのに。わたしは残虐で、お前は血を流している。わたしの酔いしれた残虐さを、お前は讃える。なんのために。 「完全になったもの、すべて熟れたものは──死のうとする」。そうお前は語る。葡萄を摘む鋏に、さいわいあれ、さいわいあれ。 だがまだ熟れぬものは生きようとする。いたましいことだ。 苦痛は語る、「過ぎ去れ、消えてくれ、苦痛よ!」。だが苦悩するものはすべて生きようとする。成熟して、歓び、憧れるために。 ──もっと遠く、高く、あかるいものに憧れて。「わたしを継ぐ者が欲しい」と、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
「"現代性"」を栄養と消化にたとえて。── 感受性の言いようのない敏感(──道徳主義的装いをこらせば、"同情"の増大──)、ばらばらの印象の以前にもましたはなはだしい充満、──食物、文学、新聞、様式、趣味、風景すらの"世界市民主義"。これらのものが流れこむ"テンポ"は"快速調"である。 印象はたがいに消しあう。ひとは、何ものかを内に取りいれ、深刻に受けとることを、何ものかを「消化する」ことを、本能的に警戒する。──消化力の弱化がこれから結果する。この累積した印象に対する一種の順応が入りこむ。人間は"行動する"ことを忘れ、外部からの刺戟に"やっと反応するだけである"。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
思惟することと、思惟がそのためにあるところのものとは同じである。なぜならば、思惟がそこにおいて表現を得るところのあるものがなければ、汝は思惟することを見出さないであろうから。まことに"ある"もののほかには何ものも現にありもせずこれからあることもないだろう。運命が"ある"ものを縛しめて それを完全にして不動のものたらしめているから。このゆえに死すべき者どもが真実と信じて定めたすべてのものは名目にすぎぬであろう──生じるということも滅びるということも、"あり"かつ"あらぬ"ということも、場所を変えるということも、明るい色をとりかえるということも。 (パルメニデス 断片 8)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
団蔵は、いはば眼高手低の人であつた。眼高手低の悲しみと、批評家の矜持を、心のうち深く隠して、終生を、いやいやながら、舞台の上に送つた人であつた。 本来、役者の自意識といふものは、芸だけに働らいてみればよいもので、自分の本質に関する自意識は芸の邪魔になることが多い。団蔵がこれほどよく己れを知つてゐなければ、もつと飛躍した演技をわがものにすることができたかもしれないのである。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
彼は常々自然科学の研究法に非常に興味を惹かれていた。しかし通常、科学が取り上げるテーマは瑣末で、なんの重要性もないように感じられた。だから自分を生きたまま分析し始め、ついには他者を生きたまま分析するようになった。 人間の生活、それこそが唯一研究する価値があると思えたのだ。それに比べれば価値のあるものなど何もない。苦しみと喜びのるつぼである人生を観察するには、ガラスの仮面をかぶることはできないし、硫黄のような煙に頭を悩まされるのも、想像力をおそろしい妄想と不幸の夢に混沌とさせられるのも
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
馬鹿で素朴なアメリカ映画からは、その馬鹿さゆえに、その馬鹿さを通じて教えられるところがある。素朴ではないが間の抜けたイギリス映画からは、教わるところはない。しばしば私は、馬鹿なアメリカ映画から学んできた。 (ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1947.4.2) ウィトゲンシュタインはアメリカ映画しか見ようとしなかった。イギリスやヨーロッパ大陸の映画は全て嫌いだった。それらの映画ではカメラマンが『ほら私のカメラワークの巧みさをご覧なさい』とでも言いたげに映画に割り込んでくるからだった (クリスティアンヌ・ショヴィレ『ウィトゲンシュタイン』)
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
論理と倫理は、"知性"にとっては絶対でまた永遠の真理の体系であり、そしてそのゆえにこそ"歴史"にとっては不真理である。思想の領域内では、内的な目が外的な目に対して無条件的に勝利を得ると言うなら、それでもいい。ところが事実の領域内で永遠の真理を信ずるということは、個々の人間、頭の中での 小さなばかげた芝居である。真の思想体系は存在することができない。どんな記号も現実の代用とはならないからである。深奥な正直な思想家がいつでも行きつく結論は、あらゆる認識はその特有な形態によってあらかじめ定められていて、語の意味することには決して達することができないということである。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
科学の発達は、「既知のもの」をますます未知のもののうちへと解消する、──しかるに科学は、まさしく"逆のこと"を"欲し"、未知のものを既知のものへと還元する本能から出発している。 要約すれば、科学が準備するのは、"主権的な無知"、すなわち、「認識」は全然あらわれることはないとの、 それがあらわれると夢みるのは一種の驕慢であったとの感情、それのみならず、「認識」を一つの"可能性"としてみとめるだけの概念をすら私たちはなんら保有してはいないとの、──「認識」とは一つの矛盾にみちた考えであるとの感情である。私たちは人間の太古の神話や虚栄をきびしい事実のうちへと
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包むこの虚無の夜と等質なものなのかわからなかった。おそらく美はそのどちらでもあった。細部でもあり全体でもあり、金閣でもあり金閣を包む夜でもあった。そう思うことで、かつて私を悩ませた金閣の美の不可解は、半ば解けるような気がした。 何故ならその細部の美、その柱、その勾欄、その蔀戸、その板唐戸、その華頭窓、その宝形造の屋蓋、……その法水院、その潮音洞、その究竟頂、その漱清、……その池の投影、その小さな島々、その松、その舟泊りにいたるまでの細部の美を点検すれば、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
自分自身について自分に嘘をつくこと、自分の意志の状態における見せかけについて自分を欺くことは、スタイルに有害な影響を及ぼすに違いない。なぜなら、その結果、スタイルにおいて何が本物で何が偽物なのか分からなくなるから。このことによって、マーラーのスタイルが偽りであることを説明できる。 もし私が自分自身に演技をしたら(そのような人が書くように私は書いていると思う)、スタイルが表現するのはそのような類のことになってしまう。そうすると、そのスタイルは、私自身のものではありえない。もし自分が何であるかを知ろうとしないなら、あなたの書くものは欺瞞の一形態である。
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 30/09/2026
彼の本性は、だから自殺者の本性だ。こいつは自分の肉を食うための歯しか持っていないし、また自分の歯にだけ合う肉しか持っていない。なぜなら、中心を持たず、すなわち職業、愛情、家族、年金を持たず、つまり単なる試みであるにもせよ、世間に対して大事業を構えることをせず、 したがって自分の持っているもの一切合財で、世間をいわばあっと言わせることをしなければ、人は自分を一瞬のうちに破滅させる損失を防ぐことはできないからだ。この独身者は薄っぺらな服を着、独自の祈祷の流儀を持ち、足は辛抱強く、自分の借りている住いのことを心配していて、
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哲学・文学・宗教bot @hys3go.bsky.social · 29/09/2026
それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞讃を送らなければならぬ義務の負担である。「徒党」というものは、はたから見ると、所謂「友情」によってつながり、 十把一からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その同じ「徒党」の中に居る人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の「徒党」の敵手の中に居るものである。
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