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ずいぶん昔、崑崙の玉虚宮をはじめとする浮島の上空に、巨大な天蓋を設けようという計画が出たことがある。
透明な天蓋を用いて光を容れながら、一方で雨や雪を避けようというのである。あるいは雨や雪は集めて貯めることにして、貯水槽を運用してもよい。
崑崙には建前上、雨や雪を厭うような未熟者はいないということになっていた。だが中には屋外での実験がいちいち天候に左右されては叶わないという声もあり、あるいはあの金鰲島はどんな天候にも左右されない強固な外殻を持っているではないかという話もあり、結局実用というよりは一つの技術の試みとして、崑崙の教主元始天尊はその計画を承認した。
——発案者は功名心に逸ったのだろう、という短評は、後からいくらでも言えることだ。
普通は見た目に少しもわからない、光学迷彩の施された半球形の天蓋である。
バードストライクを避けるため、未登録の飛行体が接近すると警告を発する機能が取り入れられた。
そうしてその巨大な天蓋は、長年の設置工事の後に、二日で壊れた。
崑崙最高の科学者が、ちょうど霊珠の研究の佳境で、工事にほとんど携わっていなかったことも敗因のひとつとされた。
撤去が完了するのには、つくった時以上に時間がかかった。
撤去が完了するまでの間、雨の日の崑崙には、天蓋のひびから流れ落ちる滝の緞帳が現れ、それはたくさんの浮島たちを、ちょうど真ん中で二つに隔てた。
巨大な、一枚の鏡のように。
○
「……そんなこともありましたね」
楊戩はいつになくきちんと付き合って頷いた。老人の姿の十二仙の一人は、熱心に昔話を続けた。
若者のご多分にもれずこの優等生にとっても、先達だらけの宴席はあまり楽しいものではない。話に興味のあるそぶりでも見せればさらに捕まってしまうからさっさと逃げるのが常だが、今日は珍しくその場でかしこまっている。
太乙真人が傍らから身を乗り出して盃を片手に、
「そうそう、あの時は大変だった。雨の日のあの水のカーテンったら、まず頭のてっぺんから靴の先まで、通行人を念入りにぐしょ濡れにしてたよ」
「あの時はずぶ濡れになってるやつがいたら、たとえ知らない道士でも、少なくとも『向こう側』のエリアからきたんだってすぐわかったよな。水を避けようとして変なところから玉虚宮に入ったやつがうっかり中で迷ったり」
「あれ、長い人は最近まで迷ってたよね、ほら二年前の――」
「そういえば玉虚宮の奥で自給自足してた道士が発見されたって、あの時のやつだったか」
当の玉虚宮の広間のひとつを利用した、いわゆる幹部飲み会の席である。
十二仙は、その立場にもそぐわず人懐こい人物が多い。
平素は敬して遠ざけられがちだがこういう場では大抵さばけすぎるほどさばけていて、まともな弟子たちは難儀するし、まともでない弟子たちは何も気にせずいつものように師に食ってかかったりツッコミを入れたり他所の弟子と手合わせをはじめたりする。己が師を高仙の模範に考えている楊戩などは当然自分を「まとも」に分類していて、この手の場は本来さっさと引き上げたい方である。
「そういえば玉鼎はどーしたんじゃ」
「玉鼎真人師匠でしたら元始天尊様に特別にお借りした書籍を読んでしまいたいとかで、本日は早々に失礼しております」
老人たちの問いに答える楊戩の声に被せるようにして、先ほどの会話は続いていた。
「――でもそういう君は、そういえば全然濡れてなかったじゃない?どうしてたの、あのジャージが濡れてないってこっそり噂になってたんだけど」
「え、あれ?簡単だぞ、こうやって莫耶の宝剣をぐるぐるとな」
清虚道徳真君は己が宝貝をひょいと取り出し、頭上で猛然とスピンさせて遠心力を示した。
「うわっ曲芸……」
「多少飛んだ水滴ぐらいなら別に……即座に乾くだろ。暑い時は逆に気持ちいいぞ」
「それは君の筋肉量が多くて体温が高いからだよ」
「え、コーチ何やってんの、何さそれ?」
腕比べでも始めたと思ったのか、向こうの卓から黄天化が移ってきた。楊戩はひそかに重荷の半分を預けるような思いで席を勧めたが、酔っ払いから逃れることはできなかった。
「楊戩も意外と筋肉だから、体温は高そうだね」
「あー楊戩さんは普通に筋肉っしょ。ここ二人ともさぁ、打ち合ってると湯気出てくんのへへへ」
「……まあ鍛えてますから。でも、僕は、ずぶ濡れになるのは御免こうむりたい方ですね」
濡れた服の不快感を思い出して楊戩は苦笑した。あの頃のことなら確かに覚えていた。彼が、師の名代もとれるようになった時期だった。大抵余裕を持って回り道をすることが多かったけれども、急ぎの用の時には哮天犬で滝の下を突っ切る羽目になったことも一再ではない。修行時以外ではやや潔癖症の向きのあるこの若者には、あまり嬉しくないことではあった……。
「あ」
その麗しき天才道士が唐突にたんと酒杯を置いて腰をあげたので、周囲は思わず身体を引いた。
「太公望師叔」
どこにいたのか小柄な元始天尊の直弟子が、宴席を横切って場を離れようとしているらしかった。楊戩はそのまま立ち上がって、酔っ払いの群れを突っ切ってすたすたと彼に寄って行った。太公望は片手を上げて挨拶したが足を止めない。
「おぬしもいたのか」
「はい。もうお帰りになるんですか」
「うむ、だいぶ食ったし、スープーを待たせておるし、ちと休んで夜明けには地上に戻ろうと思ってのう」
「あ、それでしたら……」
いい場所が、と言おうとして楊戩が口をつぐんだのは、これでは完全にバカなナンパのやり口ではないかと自分で自分に辟易したからだ。もちろん太公望はそんなことはわからないので、怪訝な視線を投げかける。その間も彼は歩き続け、楊戩も伴って行って扉は閉まった。
「……何だありゃ」
残された者の中で、真っ先に道徳真君が、つい直球で感想を述べた。
「やーでもあれ、本人ばれてないつもりだよ」
太乙真人は手をひらひらと振る。
面白いものを見たという野次馬根性を隠さず肩を竦めて、
「あんなに周りが見えてないのも珍しいよねあはは」
「なんだか俺っちのほうが恥ずかしくなってきたさ……」
○
——休むならいい場所がありますよ。
——人間界の冬はいかがですか。
——待っていてください、力になりますから……。
短い道を送りながら、楊戩はそれらの言葉を何も言えなかった。ただ四不象と合流した太公望とつまらない冗談を言って別れ、夜明けの空に消える小さな背中を見た。
空を。
割って落ちる巨大な質量の水。
体も魂もざぶりと飲み込む水。目の前の世界を一瞬で歪ませそして清めるもの。思いも寄らぬ不規則な光の乱舞に染め上げるもの。
その記憶が何かに似ている……。
それが恋よりもっと深い痛みであることに気付くにはまだ、もう少し時間がかかった。
了